元盛松集落(もとさがりまつ - しゅうらく)

元盛松集落は三重県尾鷲市の三木崎と呼ばれる岬に位置する消滅集落である。1929年に三木浦の湾奥に集落ごと移住し、廃村となった。 現在でも大規模な石垣や石畳の歩道などが多数残っており、当時の集落の様子を想起させる様は圧巻の一言である。

この集落がいつ頃発足したかは不明だが、「紀伊南牟婁郡誌」には三木新八郎が三木浦に居城を構え、この元盛松も領有した記録が残ることから、少なくとも16世紀以前には既に存在したことが伺える。「三木里地誌」によると、もとは現在の度会郡南島から製塩のために人々が頼母へ移動し、その後に元盛松に移り住んだのがこの集落の発祥だと伝わる。 1601年の検地によると、周辺の三木浦、早田などの集落と比べても戸数が多かったことが記録されており、当時としては大きな集落であった。

海に面した集落でありながら、荒磯により適した船着き場がなく、漁業はあまり発展しなかった。生活物資なども山を越え更に海を渡って運び出す必要があるうえ、その土地柄、耕地もごく限られており住民の生活は貧しかったと思われる。

1611年に創建されたという海蔵寺の境内には大きな老松が聳え立ち、枝を下げていたことが特徴的だったことからこの地を「下松」と呼ぶようになった。後に「下がる」という意味合いを嫌い、集落の発展を願って「盛松」と改められた。

この場所の年表

16世紀ごろ 「紀伊南牟婁郡誌」の記録からこの頃より前の時代から既に集落が存在していたことが伺える
1611年 周鋒千徹僧がこの地に海蔵寺を開基する
18世紀後半頃 集落の発展を願い名称を「下松」から「盛松」に改める
1794年 漁場の権利を巡り、近隣の早田浦との係争があったことが記録される
1877年 三木浦と合同で三木小学校を創立
1883年12月 漁場の権利を巡り、近隣の三木浦との係争があったことが記録される
1923年 通学の不便さから海蔵寺に分教場が設置される、分教場には小学4年生までが通学した
1928年 生活の不便さから全戸が三木浦の湾奥への移住を決定、廃村となる

主なランドマーク

各所跡地

海蔵寺跡、鏡神社後、運動場後、庄屋跡などが残るが、いずれも基礎の石垣が見られるのみである。石垣群は広範囲に及んでおり、当時の集落の様子がおぼろげながらも想像できる壮大なものとなっている。

運動場後には跳び箱石と呼ばれる丸石があり、当時の子供たちに跳び箱代わりとして利用されたという。

その他、海蔵寺跡には集落の由来となったと思われる松の木の残骸が残っているが、果たしてこれが当時の松そのものなのかは定かではない。

シシ垣

集落を囲うように積まれたシシ垣の遺構。集落は貧しく、耕地はごく限られていたため、獣害は死活問題でありこのように大規模なシシ垣が築かれたと想像できる。

戦時には集落から出征兵が出ると、兵士を先頭にこのシシ垣の周りをぐるりと周り、住人総出で武運長久を願ったという。

廃村後も年に二回ほど元住人によって管理がされていたようだが、東南海地震の発生を機にこの慣例も失われている。

ゴロタ浜と船着き場

直径1m前後の花崗岩が長い年月をかけて丸くなり、その石群で形成された海岸がゴロタ浜であり、この集落から出られる唯一の海岸でもあった。

近くには人為的に削られた崖があり、ここが当時の船着き場であったという。船着き場には階段跡のようなものや、人工的に開けられた穴が多数見受けられるが、現在では一見するととても船着き場には見えない様子となっている。

集落の中央の歩道跡

船着き場からまっすぐ伸びる歩道跡。歩道は集落上部に位置する海蔵寺へ続いている。また歩道に沿って民家のものだったと思われる石垣の跡が多数見られる。

現在でも大部分が残されており、その壮大さに驚かされる。特筆すべきはそのほとんどが石畳で舗装されており、このような小規模な集落においてここまで大規模なの石畳が敷かれているのは全国的にも珍しい例であろう。

歩道の脇には用水路あとや石造りの水桶、石橋などがみられる。

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