杉集落(すぎ - しゅうらく)
杉集落は滋賀県の多賀町に存在する廃村である。かつては近隣の保月、五僧とともに旧脇ヶ畑村を構成した集落の1つであった。現在、定住者はすでに無く、元住人の高齢化も進んでいることから充分な管理もされておらず、朽ちるままとなっているが、ボランティアで集落を管理されている男性が1名おり、植樹や集落の清掃などを行っている。
正確な起源は定かではないが、もとは多賀明神のご神木を守護する人々の子孫が開拓したと伝わる。「杉」という名にもその名残を見ることができるが、その真偽の程は定かではない。旧脇ヶ畑村の表玄関であったこの小さな集落は、この地区西方の起点として、四方八方から多くの道路が集中していたが、現在は殆どの道路が自然に飲み込まれ消失している。
1911年には大火に見舞われ、集落のほぼ全域が灰燼に帰し、人家わずか5棟を残すのみとなった。この事件は旧脇ヶ畑村の人々に大きなショックを与え、これを機に私設消防団が結成されるなど、各村で防災への意識がより一層高まったという。この大火が原因で神社などに保管されていた資料が焼失したことから、この集落の歴史も殆ど失われた。
この場所の年表
1600年9月15日 | 島津義弘が五僧越えにて薩摩に帰還するさいに集落付近を通過した |
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1760年 | 光明寺が建立される |
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1885年7月 | 五僧、保月と併合される |
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1905年8月1日 | 光明寺に分教場が設置される |
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1911年3月29日 | 大火により民家僅か5棟を残し集落全体がほぼ灰燼に帰す |
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1912年 | 分教場が廃止される |
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1970年代 | 定住者0により廃村となる、住民は行政の補助を受け木曽団地へ集団移住した |
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主なランドマーク
島津街道
千名の大軍を率い、西軍として関ケ原の合戦に参加した島津義弘は、戦況が不利に傾いた戦に見切りをつけ、敵中を突破し、自領の薩摩へ帰還することを決意した。後に「島津の退き口」と呼ばれるこの有名な退却劇では、まさにこの杉集落内を走る杉坂峠を、敵中突破する島津義弘が通過したと伝わっている。
いつしか先祖の英雄的な武功を称えようと、鹿児島県伊集院町の少年らが中心となって関ケ原踏破隊が組織された。島津が実際に通過したと伝わる70km以上に及ぶ険しい退き口を徒歩で踏破するこの行事は、毎年7月頃に行われ、それは現代にも受け継がれている。この踏破隊には過去に西郷隆盛や大久保利通も参加したという記録が残されている。
光明寺跡の石碑
光明寺の敷地に建てられた記念碑。
光明寺は1760年に創建され、もとは天台宗に属した。後に浄土真宗へ改宗している。1911年3月に起こった大火により一度完全に焼失したが、住民の努力により1917年に再建された。戦後に過疎化が進み管理が困難になったことから、1977年に木曽団地へ移設された。現在でも光明寺と思われる建物は存在しているが、寺自体は廃寺となっているようである。
萱賀神社
正確な由緒は不明。古老の話によるとその昔、この辺りで鹿の大群が発生し、それを駆除したという。そして鹿の霊を鎮めるためにこの神社が建てられたという。1911年3月の大火にてこの神社も一度焼失しており、古い記録はすべて失われている。