椿集落(つばき - しゅうらく)

岐阜県山県市にかつて存在した村。
武儀川の支流に沿って発展した線状集落である。

1971年に行政による集団移住の対象となり、それから現在に至るまで無人の地と化している。 しかし現在も、かつての住人やその子孫が墓参りや、土地の管理のために稀に訪れているようだ。

村全体は自然に還りつつあるものの、未だに数件の家屋が残っており、特に神社跡などは未だによく管理されているように見受けられる。 盛期には70戸ほどあったようで、建物こそ残っていないものの、村のそこかしこに基礎部分であったと思われる石垣が確認できる。

村全体は上村、中村、下村という区分で分けられており、村の入り口から端は凡そ3~5kmほどの範囲に及ぶ比較的規模の大きな村である。

この場所の年表

1501年頃 近江国の豪族であった中原氏がこの地に落ち延び、居住地と定める
1873年 寺子屋として教育が行われていた鸚笑義校に代わり益進義校椿支校が開校
1889年7月1日 町村制により椿村が発足
1897年4月1日 合併により廃村となる。以後は北武芸村として発足
1971年12月 行政指導による集団移住の対象となり、無人の地となる

主なランドマーク

阿賀多神社(縣神社)

村の入り口にある碑には阿賀多神社とあるが、神社入口にある石柱には縣神社とある。読みはどちらも「アガタ」であり、どちらが正式かは不明である。

社格は村社である。

2021年8月時点でもよく管理されており、時々人が訪れて敷地内の清掃などを行っているようである。境内には手水舎、賽銭箱、狛犬、拝殿、本殿などが朽ちつつはあるものの、現存している。

また、日露戦争時の従軍記念碑なども境内に設置されている。

鸚笑義校跡(椿分校跡)

1873年に益進義校の支校として開校された。
時代を経て度々名称が変わっているが、村入り口にある碑には鸚笑義校跡、跡地の碑には椿分校跡と記述されている。開校当時は鸚笑義校と称していたようである。

1971年にこの地区の集団移住とともに廃校となった。

2021年8月時点では朽ちた遊具と記念碑が残されているのみで、校舎自体は跡形もなく消滅している。

石垣群

村のいたるところで見受けられる石垣群。

恐らく当時の建物の基礎部分であったと思われる。それなりに大規模なものもあり、往年の村の様子を語ってくれている。

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