今の気分:

導入どうにゅう

池井いけいたもつしるした著書ちょしょほろむららときて」には、虎杖いたどり小学校しょうがっこう赴任ふにんした1967ねん4がつから1972ねん3がつ期間きかんきた出来事できごと自身じしん活動かつどうについてがしるされています。この時代じだいはまさに、丹後半島たんごはんとうでへき地とばれる集落しゅうらく次々つぎつぎ消滅しょうめつしていった時期じきかさなり、そんな時代じだい最中さなかきた人々ひとびときびしい生活せいかつ心情しんじょう克明こくめい記録きろくされています。今回こんかいはこの著書ちょしょ内容ないようもと激動げきどう時代じだいきた人々ひとびと痕跡こんせきっていきましょう。

僻地へきちとはなに

池井いけい著書ちょしょなかでへき地を「基本きほんてき人権じんけんがいちじるしくおかされている地域ちいきのことである」と定義ていぎしています。ゆきればつねいのち危険きけんおよび、学校がっこう給食きゅうしょくはじまってもへき地に給食きゅうしょくとどかない。冬季とうきには集落しゅうらくおとこたちが生活せいかつささえるためにおさな子供こども女性じょせい老人ろうじんのこふゆらしをあんじながら出稼でかせぎにかざるをない労働ろうどう環境かんきょう憲法けんぽう基本きほんてき人権じんけん尊重そんちょうされているなかで、これらの社会しゃかいてき不合理ふごうり集中しゅうちゅうてきけるという矛盾むじゅん、そしてついにはその結果けっかはいそんというかたちあらわれるのだとかたっています。

虎杖いたどり小学校しょうがっこう

1872ねんだい三大学区第九中学竹野郡鞍内校(だいさんだいがくくだいきゅうちゅうがくたけのぐんくらうちこう)として創設そうせつされ、戦後せんごには鞍内くらうち三山みやま乗田のったがはら竹久たけきゅう小脇こわきの5集落しゅうらく学区がっくとし盛期せいきには80にん児童じどうかかえていました。しかし学区がっくない集落しゅうらくでは生活せいかつきびしさから離村りそんする住人じゅうにん相次あいつぎ、1975ねんには学区がっくない集落しゅうらくくらうちのみとなりました。最終さいしゅうてきには1990ねんをもって閉校へいこうし、そのなが歴史れきしにおいて600にんえる卒業生そつぎょうせい送り出おくりだした虎杖いたどり小学校しょうがっこう歴史れきしまくじました。

虎杖いたどり小学校しょうがっこうのグランド

池井いけい著書ちょしょにはこの運動うんどうじょうつくさい苦労くろうかたられています。

地域ちいき学校がっこう一体いったいとなってまち当局とうきょくへ「ひろいグランドを」の陳情ちんじょう要請ようせい毎年まいとしされた。(中略ちゅうりゃくよんじゅうさんねん五月ごがつ、いろいろな曲折きょくせつのすえあたらしい校庭こうていのくわ測量そくりょうがはじまった。このとしすえには用地ようち買収ばいしゅうわった。(中略ちゅうりゃくよんじゅうよんねん九月くがつ工事こうじ着工ちゃっこうした。(中略ちゅうりゃく騒音そうおんははげしかったが、そのおとはうるさいおとではなく建設けんせつゆめさそおとであった。このとし十一月じゅういちがつすえには工事こうじ完了かんりょう運動うんどうじょうができた。(中略ちゅうりゃくはるになったよんじゅうねんにローラーひきをはじめた。十月じゅうがつじゅうにち運動会うんどうかいひらいた。むらひとすべてがあつまってばん国旗こくきかぜになびいた。おとなから子供こどもから、おじいさんおばあさんまで、元気げんきよくはしった、あめがふってもはしった、かさをさしてはしった。それほどひろ運動うんどうじょうができたことがうれしかったのだ。

はいそんへといた要因よういん

このような山間さんかん集落しゅうらくからひと離村りそんしていくおも要因よういんはどういったものがあったのでしょうか。きょうたんはいそん加速かそくする時代じだい最中さなか、その場所ばしょ実際じっさいらしその様子ようす目の当まのあたりにした著者ちょしゃ言及げんきゅうしているものは以下いかとおりです。

食糧しょくりょう国内こくない自給じきゅうから食糧しょくりょう輸入ゆにゅうへと転換てんかんするなど、国内こくない農業のうぎょう政策せいさくおおきく改革かいかくされ、零細農家(れいさいのうか)が農業のうぎょう採算さいさんるのが困難こんなんとなった

老人ろうじん高齢こうれいにより冬季とうき急病きゅうびょう打つ手うつてがなくなった

高校こうこう入学にゅうがくともなかなら発生はっせいする下宿げしゅくなどの必要ひつよう経費けいひ家計かけい圧迫あっぱく

おとこたちの冬季とうき出稼でかせぎにより集落しゅうらくのこされる母子ぼし老人ろうじん生活せいかつきびしさ

著書ちょしょにはこうした数々かずかず問題もんだい直面ちょくめんしながらも、故郷こきょうでの生活せいかつ維持いじするためにあらゆる努力どりょく思考しこう錯誤さくごかさねたことがしるされています。しかし現実げんじつはそんな住人じゅうにんたちの生活せいかつをさらに追い込おいこんでいきます。1けん、また1けん集落しゅうらくからは離村りそんしゃつづけました。

小脇こわき集落しゅうらく

小脇こわきむら引越ひっこしをする

わたしのうちも夏休なつやすみのわりには引越ひっこ

小脇こわきわかれたくない

空気くうきのいい小脇こわき

みずもある木の実きのみもある

引越ひっこしをしたら

公民館こうみんかんがさびしがる

やまがさびしがる

なぜ引越ひっこしみたいなことをかんがえる

ただひとみちのわるいことだ

みちをよくしべんりのいいようにする

わたしは小脇こわきがすきだ

小脇こわきとははなれたくない

三山みやま集落しゅうらく

荷物にもつをつくりながらふだんはあまりない自分じぶんいえをじっくりると、なんとすばらしいいえ

だろう。ろくじゅうねんまえてられたいえだからすきまがたくさんある。さむかぜきつけるや、ゆきがふぶくには、そのすきまから、ようしゃなくゆきはいってくる。しかし、おおきなふとはしらたか天井てんじょう、どれもくろひかっている。見上みあげるいえ堂々どうどうとしている。ろくじゅうねんあいだあめかぜ大雪おおゆき、とたたかいぬいてきたいえ、これはわたしいえだけではない、こんなやま歴史れきしえる。

そのた。よい天気てんきだった。お父ちゃんも、おばあちゃんも言葉ことばすくなく荷物にもつはこんでいた。さすがのおとうと元気げんきがなかった。最後さいご祖先そせんはかまいった。ながあいだ、おじいちゃんのはかをあわせているちちがさみしそうだった。そのよこにちょこんとっているおばあちゃんがかなしそうだった。それからもうむこともないいえをじっとて、出発しゅっぱつした。

やまじゅうだけは、離村りそんしないでこのむら一生懸命いっしょうけんめいまもつづけてました。だけど、うちのねえちゃんは保母ほぼになるため大阪おおさか学校がっこうき、番目ばんめねえちゃんは高校こうこうだけど通学つうがく出来でき下宿げしゅくをしなくてはならないのです。これはぼくのいえだけではありません。

とうとう三宅みやけというところへ集団しゅうだん離村りそんすることになったのです。ぼくのむらじゅうねんふゆあけとともにはいそんになります。ぼくたちの先祖せんぞ必死ひっしになってまもつづつづけてきたむらなのです。できるなら永久とわつづいてほしいとねがうばかりです。先祖せんぞたちは、離村りそんのことなどらずに草葉の陰くさばのかげねむっていることでしょう。でもむらわかれなくてはなりません。ぼくはやけっても豪雪ごうせつ一生いっしょうわすれることはできないでしょう。さよなら

池井いけい言葉ことば

ぼくたちは過疎かそのあらしのただ中にくらしている。ぼくたちの虎杖いたどり小学校しょうがっこうこうにはいつつのむらがあった。そのなかの竹久たけきゅうむら昭和しょうわさんじゅうきゅうねんはいそんになり、よんじゅうよんねんには乗田のったがはらむらはいそんとなり、よんじゅうななねんには小脇こわきむらいっけんとなった。

どのいえもどのいえむらり、廃墟はいきょとなる。こんなかたちでしかのこなかったむら。そして、人々ひとびと。そのかなしさは――屋根やねはおち、かべはくずれ、はしらがぽつんとたっているいえみちばたに放置ほうちされびるにまかせたオートバイ。のこされたみずかめにたまってしまった雨水あまみず。それらに象徴しょうちょうされている。ひと気配けはいのまったくないむら。しいーんとしたむら。かって、きびしい自然しぜんなかに、ずっしりとつちをおろしらしをそだまもとおした人々ひとびとの、むらの、せつなさがひしとむねせまる。

どうしてこうならなければならないか。

こうした現実げんじつのなかでどもたちもきている。

最後さいご

丹後半島たんごはんとう山中さんちゅうには、時代じだい変化へんか飲み込のみこまれつつもきるすべ日々ひび模索もさくしながら努力どりょくし、しかしそれでも生き方いきかたえざるをなかった人々ひとびとらしの名残なごりねむっていました。

むら朽ち果くちは自然しぜん飲み込のみこまれたとしても、だれかの記憶きおくのこつづけるかぎりこの場所ばしょきた人々ひとびと歴史れきし消え去きえさることはありません。そして未来みらいわたしたちは、まずはることからはじめなければなりません。