2022/01/16

元盛松の歴史 – 海に面した集落で暮らした人々の文化・風習などを解説

今回は三重県尾鷲市の三木崎にかつて存在した元盛松の歴史について紹介していく。三木崎とは熊野灘を望むリアス式海岸の岬の中の1つであり、元盛松はそんな三木崎の麓に今もひっそりと存在している。とはいえ廃村となって100年近く経過しているので、当時の建物などは一切残っていない。しかし、シシ垣や建物の基礎であったであろう石垣、石畳の歩道とといった石造りの遺構は大量に現存しており、当時の様子をありありと現代に伝えている。

元盛松集落のなりたちについて

元盛松の正確な起源は定かではないが、「紀伊南牟婁郡誌」によると16世紀頃、三鬼新八郎という人物が三木浦に居城を構え、この盛松も領有していたとある。この三木新八郎という人物は1575年に熊野水軍の将でもあった掘内氏善に討ち滅ぼされているので、少なくともこれより以前に盛松は存在していたことが伺える。

三木浦は軍事、経済の面でも大変重要な港であったことから、この三木浦からほど近い場所にある盛松も、三木浦の影響下で共に発展してきたことが想像できる。

別の資料では、もとは現在の三重県度会郡南島の辺りから製塩を行うために人々が移住し、土着したのが起源だという記述があるが、果たしてそれがいつ頃のことであったのかはやはり定かではないようだ。

地名である「元盛松」の由来について

もとは「下松」と言い、これはこの地にかつて存在した海蔵寺という寺の境内に聳え立っていた老松の大木が枝を下げ、その様子が集落のどこからでも確認できたことから、この名が付いたと伝えられている。その後に「下」という字に縁起の悪さを感じた住民によって、将来の繁栄を願う意味を込め「盛」に改められたという。

「元」の字については、この地が廃村となった際に全戸が三木浦に移住し、移住先を同じく盛松としたため、移住元に当たるこの地は「元盛松」となったようである。

元盛松集落の暮らしについて

ここからは、かつてこの地で暮らした人々が、どのような環境のもとで生活を送っていたかについて以下の順に紹介していく。

  • ・人口について
  • ・浦組制について
  • ・船床銀の徴収について

人口について

1601年の検知によれば、近隣の三木浦は22戸に対して、盛松は27戸と当時としては比較的規模の大きな集落だったことが伺える。しかしながら時は進んで1874年の戸籍を見ると、三木浦97戸(542人)に対し盛松は約300年前と同じく27戸(126人)のままである。

理由としては、盛松は熊野灘に面していることから荒磯により、まともな船着き場がなく、海運が発展しずらかったことが挙げられるだろう。そのため生活物資の運搬には船を頼ることもできず、山を越えその先でさらに海を越えるという不便さのうえ、同様の理由により漁業もあまり発展しなかった。その地勢上、耕地も限られていたことから集落で自給できる人口には限界があったのである。

その結果、盛松では戸数を制限せざるを得ず、その数が27戸というわけであった。

浦組制について

元盛松が属した紀州藩は従来より海防には関心が高く、他藩には例を見ない「浦組制」という珍しい制度を設けていた。この浦組制とは一種の農兵制のようなものであり、その主な目的は海岸の防衛であったが、藩権力への反抗に対する抑止力でもあった。また、異国船の来航が盛んになると海防の重要性はさらに増加し、この浦組の必要性もますます高まることとなった。

浦組制の成立は1624年~1643年頃とみられ、各浦で動員数や船数を定め、常に船具や水夫の糧米を整えておくことが求められたようだ。ここでいう「浦」とは凡そ「村」と同義であり、このあたり一帯の村を指して使われた集落単位のようなものだと思われる。

船床銀の徴収について

この地域の村々には漁船を中心に多数の船があった。船はこの地域の人々にとっては生命線であり、決して欠くことのできない必須物であった。紀州藩はこの点に着目し、船床銀という船税を徴収した。船は大型船と小型船に大別され、船の大きさによって税額が設定された。船が課税の対象となったことで、船の購入・売却・廃棄などは厳しく管理されるようになり、その様子は現存する資料からも見て取れる。

1858年の船床銀表によると元盛松の船数は7隻とあり、これは周辺の村と比較しても少数である。同年の三木浦が76隻なことを考えると、やはり元盛松では海運業は殆ど発展していなかったことが分かる。

元盛松集落の生業について

海に面しながらも条件の悪さから海運が発展しなかったことは既に説明したとおりだが、元盛松ではどのような生業があったのか、資料からいくつか確認することができたのでここに紹介する。

  • ・製塩について
  • ・漁業について
  • ・農業について

製塩について

上述の通り、もともとは製塩を行うためにこの地に人々が移住し、住み着いたのが元盛松の始まりでもある。漁業や農業があまり発展しなかったこの集落にとって、製塩は殊更重要な生業であったであろうことが想像できる。実際に元盛松には「塩竃」という地名も残っているほどである。

製塩は神宮に納める必要性から、伊勢から志摩の一帯にかけて盛んに行われたので、その文化が徐々に元盛松のある南方へ波及していったのかもしれない。実際にこの地からも伊勢神宮へ塩を奉納した記録が残っている。

米があまりとれないこの地域では、代わりに塩を米に換算して年貢として納めていた。しかし、やはり荒磯の影響により、製塩も徐々に衰退していったようである。

漁業について

既に述べたように、元盛松で漁業があまり発展しなかったのは、熊野灘に面した地勢上、辺りは荒磯でありまともな船着き場が存在しなかったことが原因である。とはいえ、漁業は重要な生業であったことに違いはなく、常に何隻かの漁船は保有していたようである。

皮肉なことに元盛松周辺の海域は絶好の漁場であった。この辺りの慣習では村に接する海域の魚は、その村に漁業権があったため、近隣の三木浦や梶賀浦から使用料を徴収し、漁業権を貸したりもしていたようである。漁業権については、各村々の間でもどこまでがその村の海域かという論争が絶えなかったようで、元盛松についても近隣の三木浦などの村と揉め事を起こした記録が残されている。

農業について

この地域では基本的には漁業が主な生業であったため、農業は未発達であった。元盛松についても、そもそも農業に適した土地が極端に少なく、それは周辺の村々についても同様の場合が多かった。少ない耕地でやりくりしていくうえで獣害は死活問題であり、住人は大変な労力と費用を掛けて、村をぐるりと囲むように万里の長城がごとく、長大なシシ垣を築いて対策を行った。

生産物については麦や芋、南瓜が一般的だったようである。枝郷である頼母、太地には田があり、稲作も行われていたが、元盛松には田はなかった。

元盛松集落の主なランドマークについて

この項では元盛松の主なランドマークをいくつか挙げている。建物自体は全く残っていないこの廃村も、数多く残された石造りの遺構から当時の面影を見ることができる。筆者が実際に訪れた際の知見を交えつつ以下の順に紹介していく。

  • ・運動場跡
  • ・海蔵寺跡
  • ・庄屋屋敷跡
  • ・船着き場跡

運動場跡

1923年に設置された分教場の運動場だった場所である。スペースとしてはそれほど広くはないが小さな子供たちが遊ぶ分には十分だったのであろう。運動場跡には跳び箱石と呼ばれる大きな岩が今でも残っている。現在は殆ど地中に埋まってしまって頭の部分がひょっこりと顔を出している状態だが、かつてこの集落の子供たちに親しまれたものであったに違いない。

運動場跡にはこの跳び箱石と、ここが運動場跡であったことを示す立て札以外は何も残されておらず、それが無ければここが運動場跡だったという認識すら出来ないであろう状態であった。

海蔵寺跡

1611年に周峰千徹僧という人物が開基したという海蔵寺だが、現在は基礎部分であったであろう石垣が僅かに残っているのみであり、一見するとそこに寺があったことを認識するのは難しい。この寺の境内には集落の名前の由来となった大きな老松が聳え立っていたそうだが、現在はそれらしい残骸が僅かに残るのみである。

1877年に元盛松の住民は近隣の三木浦と合同で三木小学校を設立した。それ以来、この集落の子供たちは三木浦町まで遥々通学していたようだが、その不便さ、通学路の危うさから1923年にこの海蔵寺に分教場が設置され、小学4年生までの子供はそこに通ったという。

庄屋屋敷跡

ひときわ目を惹く巨大な石垣は庄屋屋敷跡であるらしい。屋敷の石垣には「庄屋 – よし子」という文字が刻まれている。これはどうやらこの屋敷の直系にあたる人物の名らしいことが資料から確認できた。よし子には3人の兄弟がいたが、上2人の兄が戦死したため、女性である長女のよし子がこの屋敷を継いだらしい。よし子はのちに結婚し嫁いだので、よし子の三男に当たる「勇」という人物がその後にこの屋敷を継いだようだ。

船着き場跡

海の方へ進んでいくと、船着き場を示す看板が見える。看板が示す先にはゴロタ浜があり、ここが集落唯一の船着き場であったという。前述のとおり、この周辺は荒磯であり、集落の住民は常に良好な船着き場を得られず、苦心してきたのであるが、筆者が訪れた日は雲一つない快晴であり、海も穏やかであったのでこの海域がどれほど荒れるのかは想像がつかなかった。

一見すると、どこが船着き場であったのかすら認識することは困難であるが、僅かに残された杭や、人工的に開けられたであろう穴が岩肌に確認することができ、辛うじてそこが船着き場であったことを示していた。

まとめ

海に面した珍しいロケーションと、訪れるものを圧倒する広大な石垣群を誇るこの集落跡は、日本国内でも稀な存在であり非常に貴重な場所であると感じた。人の営みが無くなってから100年、森の奥にひっそりと存在するこの集落跡を実際に目にし、時の流れの無常さと歴史の重みを痛感した次第である。

今後もこのように歴史に埋もれた場所の存在を再発見し、世間に発信していきたいと願う。

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