2022/04/21

谷山集落の歴史 – 木地師が拓いた山間集落について解説

今回は現在の岐阜県揖斐郡にかつて存在した谷山集落歴史を紹介していく。谷山集落は、現在は廃村となっており、元住民が時折集落に帰郷する時以外は無人の地となっている。谷山集落から僅か2km程山を下った場所には、ローカルな観光地として秘かな人気を博す春日村があり、この僅かな地勢の差が、山間集落におけるその後の命運を左右する要素になりえるということがよく分かる例である。

谷山集落の成り立ちについて

元は現在の滋賀県東近江市君ケ畑町辺りに居住していた木地師が、1190年頃にこの地に移住してきたのが始まりだと言い、良質な木材に恵まれたこの谷山周辺の地が好まれ、居住地に選ばれたのだと伝わっている。そのことは集落に設置された木製の看板にも記述されていたようだが、現在はその殆どが掠れて読めなくなっている。

木地師について

木地師とは、轆轤(ろくろ)を用いて木工品を製造する職人であり、主には盆や椀、コケシなどを作ったという。文徳天皇の第一皇子であった惟喬親王(これたかしんのう)が現在の滋賀県東近江市に居を構えていた際に、轆轤による製法を編み出し、それを家臣に伝授したのが木地師の始まりであると伝わる。

木地師の集団は良材を求め全国の深山を渡り歩くことで生計を立てていたが、中には移住生活を止めその地に土着し、耕作と木地挽きで生計を立てる者達もいたという。そのような形で居住地が形成されていき、その内の一つが谷山集落だったというわけである。

住民の暮らしについて

他の例に漏れず、このような山間集落での暮らしは酷く不便で、農民も貧しかった。多くの住民は僅かな耕作地で焼畑や炭焼きをして生計を立てた。このような山間集落の暮らしについては仲越集落の歴史にて詳しく言及しているので、そちらを参考にしてほしい。

谷山集落の主な出来事

ここでは谷山の長い歴史において起こった特徴的な出来事をいくつか紹介する。主には集落の跡地に建立された石碑を参考にしている。

佛照寺谷山説教場について

現在もこの説教場の記念碑が集落内に建立されている。石碑を読み解くと、時は16世紀後半、織田信長の命により各地の仏閣が焼き討ちに遭い、現在の揖斐郡大野町にあった佛照寺の四代目住職が縁故を頼り、本尊と共に谷山へ避難してきた。この時、谷山の地に一時の堂を建て、本尊を安置したという。乱が収まり住職が帰郷すると、それ以降この堂は佛照寺の説教場になったという。

この佛照寺は確かに現在も揖斐郡大野町に同名の寺が存在している。ただし字は異なり「仏照寺」となっている。また、谷山の廃村時に説教場の梵鐘、鐘楼、太鼓などは各地の寺に移されている。

天明の大飢饉

全国的に猛威を振るったこの飢饉による被害は、谷山も例外ではなかった。1784~1787年の4年に渡る大凶作の影響で、多数の餓死者を出し、戸数も大幅に減少しているのが分かる。

人口の推移

ここでは町史などから確認できた人口の推移を紹介する。
これを見ると天明の大飢饉が如何にこの集落に大きな被害をもたらしたかが一目瞭然である。

年代住民数戸数
1673年161
1674年1678483
1731年117206255
1756年1025349
1757年106195353
1764年10824
1765年117245760
1770年24
1796年6513
1800年66
1801年6513
1850年49132227
1864年98174751
1868年93174548
1869年96174650
1870年98174751
1872年99174752
1929年9917
1966年12125
1981年0000
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