2022/04/27

篠島の歴史 – 古くから伊勢神宮との深い繋がりを持つ離島

今回は愛知県の三河湾に浮かぶ離島、篠島の歴史について紹介していく。現在は観光地として知られるこの島は、紀元前から既に人の営みがあり、伊勢神宮ともその長い歴史を通じて特別な関係を築いているなど、特筆すべき点が多い興味深い島である。

古代の篠島について

篠島にはいつごろから人が住み始めたのかについては、考古学の観点から明らかになっている。昭和7年に神明神社付近の住宅地から、アサリやサザエなどの貝殻に加え、土器や石斧などが見つかっている。これらを調査した結果、最も古いものは縄文時代中期のものというのが判明した。このことから、少なくともこの時期には既に人が居住しており、貝類、あるいは魚類を採って生活を営んでいたことが分かる。

時代は進んで紀元前2世紀頃になると、日本列島から弥生文化が伝播した。篠島島内ではその証拠を示す遺跡が多数発見されている。この弥生文化の伝播により、狩漁効率が大幅に進歩した結果、人口が増大し、徐々に村が形成されていったと考えられる。

城山(東山)と呼ばれる聖地について

現在は使用されていない篠島小学校の旧校舎のすぐ傍にある小高い丘は城山、もしくは東山とよばれている。そこには琴平神社、野島大明神、城山水神天狗などの石碑が所狭しと建立されており、他では見られない異質な空間と化している。この城山には面白い逸話がいくつかあるので紹介したい。

篠島王の居城として

もとは8世紀ごろに、篠島周辺の群島を支配した「篠島王」なる者が群島の中心地であるこの城山に居を構えたと伝わる。この篠島王について細かいことはあまり分かっていないが、「王」という名称から皇族にあたる人物であったと思われる。

その後、11世紀末の源平時代に入ると、室賀左近太夫秋季なる人物がこの地に城郭を築いたとされる。この室賀という人物は源氏側の勢力であり、伊豆国へと流刑となっていた源頼朝に平家の情報を提供していたという。一説では源頼朝は1171~1174年頃に篠島に秘かに訪れ、平家と東海の情勢を探ったと伝わる。1180年に源頼朝が挙兵した際には、室賀氏は手勢300を率い頼朝の元へ馳せ参じたが、現地へ到着する頃には既に頼朝が敗北した後だったという。

義良親王の漂着

時は進み1338年、篠島始まって以来の大事件がもたらされた。後醍醐天皇の皇子であった義良親王(後の後村上天皇)が東北へ向かう途中で台風に遭い篠島へ漂着したのである。時は南北朝時代の真っただ中であった。島民は島全体をあげて親王を迎え入れた。この時、荒廃していた城山の篠島城を急ぎ修繕し、親王の行在所としたのである。親王はその後、6ヶ月にも渡って島に滞在、その後無事帰還し後村上天皇として即位したのである。これは篠島に残っているものでも印象的なエピソードであり、島には親王に飲料水を供するために掘られたと伝わる「帝井」と呼ばれる井戸が現在も残されている。

城山のその後

その後、この場所は再び荒廃し長い間使用された記録はない。島民にとっては一時的にしろ後の天皇が滞在した場所など恐れ多く、近づき難いものとなっていたのかもしれない。大正時代に入ると、粟田 忍海という行者が巡礼のため篠島を訪れた際に、島民にこの地に残るよう請われ、城山に祀られていた水神天宮を守護するようになったと伝わっている。そしていつしかこの地には様々な神が祀られるようになり、現在のような聖域になったという。

篠島と伊勢神宮の関係性について

先に述べたように、篠島を語るうえで伊勢神宮との関係性を避けて通ることはできない。元は紀元前5世紀に倭姫命が天照大神を伊勢に祀るにあたり篠島を御贄所としたことに遡るという。御贄所とは神宮に供える魚介類の漁場のことである。もちろんこの辺りの時代については神話の域を出ないため、あくまで伝説であることを留意する必要があるだろう。しかしながら現在も島の風習として続く「おんべ鯛」を始め、篠島と伊勢神宮に古くから密接な関係性があったことは確かである。

おんべ鯛

おんべ鯛とは、塩漬けにした鯛を年に3回、伊勢神宮に奉納する祭礼であり、島民はこの伝統を島の誇りとしている。この特殊な関係から篠島は古来より、伊勢神宮の権威の庇護下に置かれ、それは現在まで続く篠島の漁業の発展に大きく寄与したことだろう。おんべ鯛を漁獲する際には伊勢神宮から与えられた「太一御用旗」が掲げられ、他の漁船はこの御旗が掲げられた船には近づくことすら禁じられていたのである。要するに篠島の漁師たちは、良好な漁場で独占的に漁を行えるということであり、この風習は昭和の時代に入っても続いていたというから驚きである。現在でも奉納祭の際には太一御用旗が掲げられるが、これは形式的なものであり、上記のような特権は持っていない。

流人の島としての篠島

17世紀にはいると篠島は尾張藩の流刑地とされた。流刑地となった理由は不明だが、近場の離島であることと、島内には多数の寺社が存在し、流人の住居に充てるに困らなかったことなどが考えられる。流罪は重罪の1つであり、流人の中には死罪を免れてきた者も少なくなかった。流人の記録がいくつか残されているので印象的なものを以下に紹介する。

鍵屋 善左衛門

名古屋京町の米商人であり富豪であった。茶道にも通じた人物である。城の大手門扉に虱を描き、そのことが表沙汰となり流刑となる。流刑となった後も豪奢を極め、島民にも茶菓子などを振舞ったという。後に赦され帰参している。

盛山 七平次

1711年10月11日に流罪となる。大変凶暴であり、数多い流人の中でもこの者ほど役人や島民に迷惑をかけた者はいないとある。留置所を3度も脱走し、後には留置所の中でも手錠を掛けられていたという。1724年6月2日に病死。

山村 治左衛門

木曽福島、山村家の家老であった。主家が叱責される事件が起こった際に、その罪を一身に受け流罪となった。文武両道に通じた人物であり、特に槍術に優れていた。多くの島民を子弟に持ち、恩恵を受けた者が多かったという。

人口の推移

年代戸数人口
1699年165853502351
1744138
18742671,006574432
1918395
19404562,594
19442,562
19455883,198
19465913,278
19476343,456
19486393,592

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