2022/02/23

仲越集落の歴史 – 代々伝わる落人伝説や人々の暮らし・風習について解説

今回は岐阜県山県市の奥地に位置する仲越集落の歴史について解説していく。仲越集落は、現在では冬季無人集落となっており、2022年の時点で世帯数も僅か2世帯と、現代日本における典型的な消滅危機集落である。このような集落は岐阜県内でも多数見られる。元住民などのボランティアによって辛うじて集落としての体裁を保って入るものの、そのような有志の寄り合いも年々高齢化が進んでおり、近い将来消滅する可能性は非常に高い。

我々historicaとしては、このような場所の存在をより多くの人の目に届く形で記録・発信し、後世に伝えていくことを活動指針としている次第である。

仲越集落の成り立ちについて

この集落の成り立ちについては、正確な資料を見付けることができなかったので不明だが、どうやら集落には代々、祖先が平家の落人であるという伝承が伝えられているようだ。

集落に伝わる落人伝説について

集落には昔から祖先が平家の落人であったという伝承が伝わっている。我々が2022年に訪れた際にも、住民の方からその話を聞くことができた。話によると、仲越集落は昔から比較的アクセスのし易かった下大須と交流が盛んであったのだが、それより以前の時代には他の集落との関係性を一切持たなかったのだという。これは平家の落人であるが故だと思われるが、この伝承の正確性については確かな資料を見付けられなかったため、実際のところは不明である。

しかし仮にこれが事実だとすれば、この集落の成立は恐らく12世紀頃であったと思われる。どちらにせよ、この集落の住人はこのような伝承にある種の誇りを持ち、日々の過酷な労働に励む心の拠り所としたのである。

仲越集落の風習・生活について

ここでは集落の風習や生活について解説していく。山間集落での生活は今では殆ど失われつつあるが、現代の我々が想像する以上に不便かつ困難であり、そのような環境下で日々を生き抜いた人々の営みを顧みる機会としたい。

生業について

このような山間集落では、日々の生活を維持するための仕事に殆どの労働力が費やされ、若者から主婦に至るまで、まだ陽の登らぬ内から山に出て、陽が沈みきる時間まで働きづめの毎日であった。斜面地の多さから農業は発展せず、作物も自給自足にも満たない分しか採れなかった。また、戦後しばらくは現金収入に繋がる仕事は殆ど存在しなかったことから、ほぼ全ての住民が木こりや過酷な炭焼き労働を行った。

炭焼きについて

特に戦後間もなくは仕事も少なく、国全体が燃料不足に陥っていたことから炭は貴重品であり、また農林省から炭1俵につき1合の特配米が出たので、仲越の住民は皆、炭焼きを行った。焼いた炭を毎日のように背負って神崎まで運び、食料や生活必需品と交換したのである。

しかししばらくの後、燃料革命によって炭の需要は急激に低下し、またこのような山間集落にも炭焼きの他に有利な仕事が多数入り込んできたことにより、炭焼き業は徐々に衰退していった。その後、日本は戦後の復興期により木材需要が増加したことから、仲越での生業も林業が主になっていった。

農業と食生活

山間集落ゆえに、斜面地が多く農業が可能な耕地も極限られていた仲越集落では、自給用の農作物にも事欠く始末であり、また水田も存在しなかった。焼畑は盛んに行われたがこれも自給用としてである。湧水を利用したわさび栽培が唯一換金できる作物であり、他には近くの仲越川に自生する川ノリを売ったりして日銭を稼ぐこともあった。

主食は基本的に稗や粟、蕎麦などで、栃の実なども貴重な食料として重宝されていた。その他には里芋やさつまいもなども限られた耕地で収穫され食されていた。戦後しばらくすると交通の便が発達したことで、自由に街を行き来できるようになり、町からの食物が集落にも流通していった。住民の主食は徐々に米に移行し、稗や粟などは食されなくなった。

焼畑について

焼畑では主に蕎麦が生産されたので「そば畑焼」とも言われ、他には稗や粟も作られた。毎年8月になると焼畑の準備に取り掛かる。急な斜面を鎌や鉈を持ちながら登っていき、何ヘクタールにも渡って山草や雑木を刈り倒していく。ようやくそれを終えると火付けの準備に取り掛かる。火付けは男の仕事であった。火はあっという間に広がっていき、1人や2人ではとても手に負えないので、4~5人で行われた。火付けでは度々事故を起こし、他の山に延焼したこともあったので、後に焼畑を行う際は役所に申し出て、消防団にも連絡するようにという規則が設けられた。

火付けが終わるといよいよ蕎麦を蒔いていく。11月の初めには収穫され、刈り取ってからは乾燥させてから実を取っていく。時々鳥に食われてしまうので見張り小屋を立て、子供たちも見張りを手伝ったという。稗はご飯に混ぜ、粟は粟餅、蕎麦は手打ち蕎麦、蕎麦がきなど様々な方法で食された。戦後しばらくして食糧事情が改善されると焼畑は行われなくなり、今では完全にその姿を消し杉林へと変わってしまっている。

栃の実について

昔から栃の木は禁木とされ絶対に伐採されなかった。というのも栃の実は非常にカロリーが高く、食糧事情の厳しい集落にとっては大変貴重な食糧であったためである。実際に栃の木の伐採や実の採取についてを巡り、度々争った記録が残されているほどである。

集落の住人はどの木がよく実を付けるのか、またよく成長する木、そうでない木を熟知していた。栃の実がよく実る年は、台風が来ない年であったという。このように栃の実は長い間集落の住人と深く結びつき、人々の食を支え続けた。戦後間もなくまで常食として食されたが、米が主食になるにつれ徐々に食卓からその姿を消していき、現在ではその味や調理方法を知る人も少なくなっている。

雪との闘い

この辺りは近隣の根尾地域と同じく豪雪地帯であり、一夜にして1mの積雪があることも珍しくはなかった。冬になると実に4ヶ月もの期間、外の活動が殆どできなくなるため雪解けの春から秋にかけての季節は、冬への備えにすべて費やされることになる。

この辺りの地域の冬季における生活については越波や大河原の記事でも詳しく触れているので、そちらを参照してほしい。

火災への備え

集落に今でも残る火の見櫓

この集落には現在でも象徴的な火の見櫓が残っており、これを見ても集落の住人が火災には殊更気持ちを割いていたことが分かるだろう。日中は大人が殆ど山仕事へ出払うため、集落へ残されるのは老人と幼い子供のみ。そんな時に火災が起こったらという不安に、住民は常に頭を悩ませ続けていた。

近くに十分な水を確保できる水源もないことから、急な坂を行き来しながら重たい水を運ぶしかなかった住民にとって、水の確保は最重要事項の1つであり、故にひとたび火災が起こればそれを消し止める術もないのである。現に過去に2度(江戸時代の頃だと伝わる)も集落が全焼するほどの大火に見舞われたという。

これらの理由により、戦後の1956年にはいち早く簡易的な水道が整備され、小学校高学年の児童を中心とした少年消防隊が結成された。これによって長い間住民の頭を悩ませ続けた問題は、ようやく解決を見たのである。

仲越盆踊り

仲越集落を語る上で欠かせないのが仲越盆踊りであろう。娯楽の少ない山間集落の住人にとっては、この毎年行われる盆踊りが何よりの楽しみであった。旧盆の三が日には、交流の深い大須地区からも人を呼んで、老若男女が夜明けまで踊り明かすのである。

盆踊りは現在でも残る公民館の前で行われ、太陽が沈むころには人でいっぱいになる。「いまやかヤチク」「ショウカイ姿」「シンコのサイ」「ホソレ」などの踊りは、幼児であっても見よう見まねで踊るため、集落の人間であれば中学校を卒業する頃にはすべて覚えたという。

最終日の午前2時頃になると「オショロさま送り」が催される。太鼓やカネ笛を先頭に、笹付きの青竹に三色の紙バカマを履かせた提灯をつけて、手にはご先祖様にお供えした牡丹餅などのご馳走のおさがりを木の葉にくるんで持ち、集落から足元の仲越川までの坂道を下る。川では笹竹や木の葉に包まれた「お土産」が一層高鳴る太鼓などに合わせて一斉に川へ流される。人々はいつまでもこれを見送ったという。 

今となっては集落で盆踊りが開催されることはない。何百年も受け継がれてきたという歌と踊りは、かつて70以上もあったというが、現在では一体その中のどれだけの数が残っているのかも定かではない。現在進行形でこのような山間集落の文化が、人知れず消えているのである。

仲越集落の教育

かつて学校があった場所、校舎は取り壊されている

集落に初めて教育の場が設置されたのは1926年7月のことである。旧北山村立北山尋常小仲越文教場としてスタートし、1948年には小学校と中学校に分けられ、中学校は1964年に美山北中仲越分校と改称、1970年には分校から仲越小中学校として独立した。

しかしながら、戦後の高度経済成長による過疎化の波をもろに受ける形で集落の人口は急速に都市部へと流出していき、1979年3月には児童数0により休校となった。休校としたのは今後、かつての住人が帰ってきた際にいつでもこの地で教育を受けられるようにとの思いからであったが、その後二度とこの地で教育が再開されることはなかった 。

休校当時の校長であった藤井氏は「本校においては仲越を愛し、仲越に育ったことを誇れる人間を育てることが課題。このために自らの手によって種だねな困難に打ち勝ち、逞しく生き抜く人間を作ることだった。たとえ休校になっても中越小中学校に燃え続けた教育の灯は永久不滅です」と語っている。

児童数の推移

町史などから確認できた児童数の推移については以下の通りである。

年代児童数教員数
1960年男16 女114
1965年男13 女134
1970年男10 女106
1972年男5 女53
1979年男0 女0
上記の数字は小中学校の生徒数を合算した数である

周辺集落との関わり

現在では林道が整備されているため、神崎地区から道路を上っていけば容易に集落までたどり着くことができるが、それまでは神崎まで下るには峠を7つも超える必要があり、大変な困難を極めた。そのため比較的容易にアクセスできた根尾地域の下大須や明石谷といった地域との交流が行われた。特に下大須との交流は盛んであり、集落の実に9割の人間が下大須の人間と縁組を行っていたという。

実際に我々が集落に訪れた際にお会いした住民の方の先祖が、越波から養子であったという話を聞くことができた。仲越集落とも繋がりの深い越波集落については、以前訪れた際の記事や動画を配信しているので、そちらを参照してほしい。

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