2021/11/14

大河原集落の歴史 – 水戸藩天狗党も滞在した山間の集落

今回は岐阜県本巣市の根尾地域という場所にある大河原集落の歴史について解説する。大河原集落は現在1世帯のみ住民としての登録があるが定住はしておらず、区分上は廃村集落という扱いとなる。その殆どが山に囲まれた地勢の根尾地域では、時代が進むにつれて不便な山間での暮らしを捨て市街地へと人口が流出したため、この大河原のように廃村となった集落が数多く存在しているようだ。

また、この集落に訪れた時の現地取材の様子は下記のレポートにて紹介されているので、興味のある方は是非そちらもチェックしてみてほしい。

大河原集落の戸数と人口について

大河原に何時頃から人が住み着くようになったのかは定かではないが、一番古い記録では18世紀の神社関係の綜合資料である「根尾筋村々神社御尋書帳」に見出すことができる。この資料によると、1759年当時は四軒ほどのかなり小規模な集落だったようだが、少なくともそれより前の時代から人が住んでいたことが伺える。19世紀以降はより記録が鮮明となり、集落の様子を知ることができる。以下は集落の人口推移を示したものである。

年代戸数人口
1800年662
1814 年 863
1823年969
1854年665
1872年1287
1881年1287
1950年27130
1960年25133
1965年1968
1970年69
1979年311
1983年46
町史より抜粋

この表からもわかる通り、大河原集落の最盛期は戦後の1950年代だが、それ以降は災害による被害や、産業の喪失、時代に即さない生活の不便な山間集落での暮らしを理由に人口の流出が続いた。1983年の記録上は戸数4となっているものの、これも春から秋にかけてのみの居住であり、この時点で定住する者は1人もいない状態であった。

大河原集落の大家族

上の人口推移表を見て分かることは、大河原集落には大家族の家が多数あったことである。これはその時代の他の集落と比べても特に顕著であり、例えば1800年の記録では僅か6戸に対して人口は62人となっている。お大尽(裕福な家)では長男以外が分家せずに本家に留まったり、下男(男の召使のこと)が妻を取りそれぞれの子供世代までも一緒に暮らしたりして、一軒あたりの人数が膨れ上がったようである。下記は特に大家族であった家の記録を町史より抜粋し、まとめたものである。

年代家主人数
1800年武兵衛17
喜平治15
1814年喜兵衛15
茂右兵衛19
彦蔵12
1823年十右兵衛13
武兵衛13
喜兵衛15
1854年武兵衛17
喜三郎15
町史より抜粋

大河原集落の信仰

大河原集落には古来より八幡社が存在していたようだが、 1795年の「根尾筋村々神社御尋書帳」にある記録の時点で由来が不明となっている。このことから大河原ではかなり昔から八幡社が氏神として人々に信仰されていたことが伺える。境内にはもみの木のご神木が聳え立っているが、これは二代目だと言われている。大昔に村で火事があった際に神社も被害に遭い一代目のもみのご神木は消失したと伝わる。

大河原集落の宗旨

大河原の宗旨は昔から越波村の願養寺であり、道場で毎年壮大な仏事が催され大河原の住民はそれを唯一の楽しみとした。当日には老若男女が仕事を総休みで仏前に集い、法話を聞いて信仰を深めたという。1929年に願養寺の内部事情により、当時の兄方に当たる住職が退寺、分派し恵那郡(現在の恵那市の辺り)に寺を建立したため、大河原の門徒も2つに分かれた。

大河原集落の生業

大河原集落には昔から耕地が少なく一般的な集落の生業となりえる百姓には向かなかった。その代わり近くに大きな河原があり、草が生繁っていたことから根尾地域全体の牛の放牧場になっていた。恐らく大河原という名も文字通り近くに大きな河原があることから付けられたのではないかと思われる。

段木の生産

段木(つだ)とは丸太の状態で伐出された木材のことであり、薪にする前の状態のものを指す。”段木”という言葉は西濃地方で主に使われた名称であり、辞書にも載っていない珍しい用語である。根尾地域の集落ではその地勢から稲が育ちにくかったことから、この段木を年貢として納めていた。

こと大河原集落に関しては、とある時期の記録では一世帯換算で段木の年間生産量が50間程であったという。これは他の集落の平均生産量からしてもかなり多い量となっている。「間」とは現代でも薪の販売単位として用いられることがあり、材質や薪の状態にもよるが1間あたり凡そ500kg前後である。つまり1世帯当たり年間25トンもの段木を生産していたということになり、年貢や生活の財源として重要な産業であったことが伺える。

その他の生業

段木伐りが徐々に衰退して以降は、炭焼きを本業とし、養蚕や和紙の生産を行う者もいた。またかつてこの辺りには栃の大木がたくさんあり、栃板の生産も盛んに行われていた記録がある。大河原は僻地に位置することもあり中々道が整備されず、これらの生産物を3俵も4俵も人が背負って一日かけて下流の人里まで運んだ。

大河原集落の雪害

根尾地域は古くから豪雪地帯で知られる。こと大河原・越波・黒津に関しては奥三ヵ村と呼ばれ、特に僻地にあったことから、冬季には他地域との交通が完全に遮断されることも珍しくなく、冬季への備えは死活問題であった。この地域の人々は雪の降らない11月からは仕事を止め大雪に備えるのが常であった。大雪でない年でも12月~3月、実に1年の3分の1にも及ぶ期間は雪に埋もれるため、外での活動が一切できず、家の中での生活が続いた。

冬季は屋根の雪下ろしや道の雪踏み、家内仕事では藁仕事が主であり、草履やわらじ、炭を入れるタテ編み、雨具などを一年間使う分だけ作った。しかし冬季の現金収入は基本的に皆無であり、通常の生業で得た蓄えも冬季4ヶ月の備えにすべて費やされることが常であったため、住民の生活は決して楽なものではなかった。

過酷な冬支度

前述の通り根尾地域の冬は過酷極まるため、冬支度もまた大変な作業であった。食糧や調味料は秋のうちに買い込むことで春まで困ることはなかったが、何より燃料の確保が一番の問題であった。

当時は囲炉裏で一日中薪を燃やして暖をとる必要があり、さらには食料の調理にも薪を消費したことから、約四ヶ月にも及ぶ期間の薪を確保するのは大変な仕事であった。近所に自分の山がある者はそこから拾い集めるだけで済むが、そうでない者は炭焼きから余った端材を恵んでもらうために4キロも5キロも歩いて出掛けて、また同じ距離を大量の薪を背負って家まで持ち帰るのである。

それでも冬が長引いた年などは薪が足りなくなることもあり、その場合は雪の降りしきる中を出掛けて行って松や杉の古枝をかき集めて燃やしたり、それもできない時などは大切な稲を燃やすこともあったという。

大河原集落での主な事件

この項では大河原集落の歴史において特筆すべき出来事を紹介する。

1965年の集中豪雨

1965年9月15日の集中豪雨では根尾地域の山間部という狭い地域で総雨量950ミリという記録的な豪雨となり、集落にも大きな被害をもたらした。大河原周辺では至る所で土砂崩れが起き、道路や林が流失するなど、伊勢湾台風を彷彿とさせる程の未曽有の災害となった。この災害は大河原を始め越波、黒津の奥三ヵ村の住民に大きな衝撃と不安を与え、これが多くの住民が故郷を離れ街へと転出していくきっかけとなった。

水戸藩天狗党の通過

大河原集落は美濃国からは最後の、越前国からは最初にあたる集落であり、両国の境に位置することから古くから商人や僧侶を始め、軍隊の行軍まで人の往来が盛んであった。特に19世紀の水戸藩天狗党の通過に関しては詳細な記録が残されているのでここに紹介しておくことにする。

ペリー来航以降、日本国内は開国派と尊王攘夷派で大きく割れ、全国各所で政争が巻き起こった。こと水戸藩においては両者の対立が特に激しく、尊王攘夷派が1864年3月に筑波山にて挙兵するに至る。藩に追われた尊王攘夷派は武田耕雲斎を首領として徳川慶喜にその志を訴えるため京を目指した。その途中揖斐から谷汲を経て大河原を通過したものである。

1864年12月4日の夕刻、天狗党の全軍が大河原に到着する。当時の大河原は戸数14戸、人口70名の小規模な集落だったため、軍隊の扱いに苦心したことが想像できる。軍の兵士たちは当時1000名ほどで挙兵したのだが、道中の争いで死者や傷病者が出て、大河原に到着した時には約800名ほどまで減っていたという。軍は当時の大河原の名主であった浅野武兵衛宅を本陣として耕雲斎ら首脳部が宿営した。藤田小四郎は太刀を胸に抱いて大黒柱に背をもたせて一夜を明かしたと武兵衛の長男であった浅野義正が伝えている。

大河原集落の歴史についてまとめ

現在は人の営みがほとんど失われた山間の集落であっても、これほどまでに興味深い歴史があることに関心するとともに、確実にこの国から失われつつあるこれら山間集落での暮らしは、恐らく数十年後には高い確率で完全に失われるであろうと改めて思い至った。というのも現代社会において、インターネットも通じない生活の不便な地域で暮らすのは非現実的であり、少子高齢化が年々悪化し衰退するこの国の現状を鑑みれば、このような山間部にまでインフラを維持する体力をこの先維持できるとは到底思えないからである。

であれば正に今この瞬間、この時代がこれら集落での暮らしを目の当たりにできる最後の機会だとも思えるのである。今回この大河原集落を取材するにあたって、集落最後の住民の話を聞く機会に恵まれたが、そういった機会も今後は徐々に減っていくであろう。

だからこそ、このような集落の歴史を記録として世界に発信していくことは価値のあることであり、このhistoricaがより多くの人の目に触れるよう日々邁進していく次第である。

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