2022/06/20

男鬼集落の歴史 – 伝統ある神社と今も残る美しい風景

今回は滋賀県多賀町に存在する廃村、男鬼集落について解説していく。男鬼と書いて「おおり」と読む珍しい地名のこの集落は、高度経済成長による過疎化の影響で、1971年に廃村となった。今でも古き良き日本の風景を色濃く残しており、かつての人々の暮らしを現代に伝えている。

周辺環境について

霊仙山の麓、標高約420m地点に位置するこの集落は、滋賀県道17号多賀醒井線を北上する途上にある。周辺には後谷、今畑入谷からなる旧霊仙村や、武奈、榑ヶ畑などがあるが、いずれも廃村となっている。かつては近隣集落の住人が、彦根方面へアクセスする際の表街道沿いの集落として、行き交う人々で賑わったという。

男鬼集落の成立ち

古い記録では、8世紀中頃に奈良の興福寺の宣教が、霊仙山の麓に七ヶ寺を創建した際に、男鬼寺(だんきじ)が建てられたという記録が残っており、これが集落の由来とされている。しかし、この寺については男鬼の読みが「おおり」ではないため、その関連性については未だに結論が出ていない状況であるという。いずれにせよ16世紀後半の古地図にははっきりと男鬼の名が確認できることから、少なくともこれ以前には集落が存在していたことは確かである。

霊仙の七ヶ寺について

かつて霊仙山の頂上には霊仙寺が存在し、8世紀中頃に奈良の興福寺の宣教によって、霊仙山の麓に七ヶ寺が建てられたという。観音寺・安養寺・大杉寺・仏性寺・荘厳寺・男鬼寺・松尾寺があったとされるが、現存しているのは滋賀県米原市上丹生にある松尾寺のみであり、その他の寺院については痕跡すら発見されていない。

霊仙の七ヶ寺については、奈良県の興福寺の末寺を列挙した「興福寺官務牒疏(かんむちょうそ)」にその存在が記されているものの、近年になってこの興福寺官務牒疏が偽文書の可能性が高まり、その存在の信憑性についてはかなり低いと言わざるを得ないだろう。

生業について

生業は主に林業による製炭であり、木炭を彦根市内で売り、その収入で米などの日用品を購入して集落へ戻るという生活をしていた。その他にはゴボウ栽培、昭和に入ると養蚕も盛んに行われ、集落の発展に大きく寄与したという。

しかし戦後になると、燃料革命による影響で主産業であった木炭の需要が激減し、養蚕やゴボウ栽培も労働力不足などにより徐々に衰退していった。結果的に住民は生業を失う形となり、先行きの見えない集落での暮らしを捨て、町へ移住していった。

教育環境について

少年山の家の記念碑

1886年11月1日に、男鬼と近隣の武奈、明幸を学区とする武奈簡易科小学校が設立。1891年には男鬼にも分教場が開設されたものの、小学校令の改正によりすぐに廃止され、周辺集落全域を学区とする鳥居本尋常小学校(現在の鳥居本小学校)が発足した。通学の不便さから、1900年には男鬼を含む3地区の児童生徒向けに、明幸に武奈分教場が設置されている。しかし武奈分教場も1990年には児童数の減少により廃校となり現在に至っている。

男鬼集落内には、1973年には「少年山の家」が開校、市内小学生の自然体験学習の場として2002年まで使用された。集落内にはログハウス風の建物が現在でも残されている。近くの空き地には地元の小学生たちが記念に残したと思われる碑が残されている。

寺と神社について

日枝神社

現在、集落内には寺と神社が1つずつ存在している。日枝神社と誓玄寺である。かつては「無量寺」という寺も存在していたらしいが、人口減少に伴い売却されたという。誓玄寺は昭和50年代に廃寺となったものの、建物は現在でも残されている。一見すると普通の家屋に見えるため、注意深く観察しないと素通りしてしまう程であった。

誓玄寺のすぐ近くにあるのが日枝神社で、山の神と大山咋命を祭っている。神社は2022年現在も綺麗に管理されており、荒れた様子は微塵も感じられなかった。神社としては集落から少し離れた山の頂上付近に比婆神社が存在している。比婆神社については次の項で触れたいと思う。

比婆神社について

比婆神社の歴史は恐らく複数の信仰が複雑に入り乱れており、その由緒は正確には分かっていない。現在の祭神は伊邪那美大神で創祀は1948年とされているが、それ以前から「山の神」が祀られていたと伝わる。現地の鳥居付近にある神社概要にも「古昔より比婆山と称し、山頂に岩窟あり」とあることから、古くは黎明期の神道からなる山岳信仰がその源流であり、このような岩窟や巨石を信仰していた可能性がある。

比婆という地名と伊邪那美大神について

一般的に「比婆」といえば中国地方にある比婆山が有名であり、言わずと知れたイザナミが眠る地とされる場所である。なぜ中国地方から遠く離れたこの地に同名の地、それもイザナミを祀る神社が存在するかについては想像するしかない。

先ほども触れたとおり比婆神社は、もとは山岳信仰を源流としている可能性があり、現在の形となってからの歴史は比較的浅いと思われる。その背景にはイザナギ由来の地である多賀大社が近くに存在することも大きく関係していると考えられ、古事記などにある伝承との関連性を、自らの地に求めるために生じた異説の1つであった可能性も考えられるだろう。

素朴な山岳信仰からの変容

元は地元住民が信仰する素朴な山の神であり、長く女人禁制の地として「山神さん」と呼ばれ親しまれていた比婆神社が、如何にして現在のように多くの人々に信仰される場所となったのか。これには興味深い経緯があったので紹介しよう。

昭和初期に「うた」と呼ばれる女性の霊能者がこの地に訪れた。当時は女人禁制の地であったため、男鬼の住人とはひと悶着あったようである。しかしどういう訳か、このうた氏は住民の静止を振り切り山へ入った。それからというもの、この地では女人禁制が解かれ、このうた氏の影響下で湖東から湖北に至る広い地域に比婆神社の講が組織されていったという。現在のような立派な社殿が建てられたのも、この時期のことである。かつては、かの林銑十郎陸軍大将も参拝に訪れたという。こうして瞬く間に有名となった比婆神社の存在に、当時の集落の住人は頭を悩ませたとも。

男鬼入谷城跡

男鬼入谷城跡は比婆神社の山中を尾根沿いに進んでいった場所にある。「淡海木間攫」には、この城跡について記されており、少なくとも江戸時代には既に城跡として存在していたことが伺える。また同文書の他に、「江州佐々木南北諸士帳」にも「男鬼 住 河原豊後守」との記載があるなど複数の文書から河原豊後守なる人物が城主であったことを思わせる記述が見られる。しかし、この河原豊後守については、資料がほとんど存在しておらず、実在した人物かどうかも定かではない。

男鬼集落のこれから

先に述べたようにこの場所は既に廃村であり、既に役目を終えた場所である。しかしながら2021年に地元の大学の研究室が中心となって発足した「男鬼プロジェクト」の活動によって、復興の兆しをみせている。活動の内容としては里山の整備と古民家のリノベーションで、週末には若者たちが集落に集い活動に勤しんでいる。実際に集落でお会いし、取材したときの様子をYoutubeチャンネルで紹介しているので、是非チェックしてみてほしい。

現代の若者の手によって失われつつあった美しい景色が再生されていく様子を見ると、感慨深い気持ちになる。読者の皆様にも是非この活動を応援していただきたい。我々もこの活動の様子を今後も追い、微力ながら見守っていきたいと思う。

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