2022/01/02

まるで古代遺跡のような森の先には大海原が – 元盛松集落を取材

どうもhistoricaの安藤です。今回は三重県の尾鷲市にかつて存在した元盛松集落を取材してきました。約100年ほど前に廃村となったこの場所は海に近く、集落跡から歩いてすぐのところに太平洋が広がっています。海の見える廃村というのはロケーション的にもなかなか珍しいですよね。

この廃村自体、知名度はあまりないみたいですが、私がこれまで訪れた廃村の中でも1、2を争うほどの印象深い場所となりました。この辺りには小さな港町が点在しており、それもまたそれぞれに違った魅力があり、楽しい体験ができました。この感動をぜひ皆さんにも共有したい、ということで取材の様子を詳しくお届けしていきます。

元盛松集落へのアクセス

三木崎を通る林道はかなり荒れた状態で、もちろん公共の交通機関など一切通っていないため、車やバイク、または自転車や徒歩で向かう必要があります。因みに今回取材班は、限界まで車で進み、後は徒歩で山道を下っていく方法をとりました。

車・バイクの場合は国道311号沿いの三木浦トンネル付近から、三木崎へ伸びる林道へ入り、5kmほど進むと集落の付近まで行くことができます。GoogleMAPなどには途中までしか表示されない林道ですが、基本的に一本道なので迷うことはないかと思います。

徒歩や自転車の場合は、最寄り駅である三木里駅までは電車で移動し、そこから元盛松へ向かうことになりますが、距離としては10km以上ある上に、集落までは険しい山道もありますので、相当体力に自信のある方以外にはお勧めしません。

林道はかなり荒れているので車で進む場合は十分注意を

元盛松へ続く林道は奥へ進むにつれ道が荒れていますので、車で進む場合は傷を付ける覚悟で挑みましょう。道幅が狭い場所も多々あるため、不安の人は手前の方で車を降り、そこから徒歩で進むという選択肢もあります。ただし、集落への道のりは険しい山道が続くので、自分の体力と相談しながらベストの方法を選択してください。

林道は道が細く舗装されていない場所も多い
林道のわきには岩がゴロゴロ落ちている、落石にも気を付けよう

車を降りてからは徒歩で険しい山道を下る

集落は三木崎の麓に位置しているため、ある程度車で進んだ後は徒歩で海の方へ下る必要があります。道のりは険しいので、必ずそれに見合った装備をして挑みましょう。現地まではひたすら山道を進みますが、至るところに道しるべが設置されていますので、迷うことはないでしょう。

車を降りてからはこのような山道をひたすら進む

行きよりも10倍過酷な帰り道、入念な準備を怠らずに

往路は集落へ向かって下り坂となるため比較的楽ではありますが、問題なのは復路です。ただでさえそこまでの道程で体力を消耗しているうえに、帰りは車を降りた場所までひたすら急な坂道を登っていくことになります。実際、取材班はペース配分を誤り、地獄を見ることとなりました。

特に夏場は体力の消耗も激しいですし、熱中症の恐れもあるので必ず水分は多めに持参していくようにしましょう。

道中で気になる施設をいくつか発見

元盛松へ向かう道中に気になるスポットをいくつか発見したのでここでご紹介します。三木崎は現在は無人の地と化していますが、かつては人の営みがあったことを随所で伺い知ることができました。

謎の巨大な窯

林道へ入ってすぐの場所に、謎の巨大な窯を発見。陶芸用に使用されていたのか、周囲には人が住んでいた形跡のある廃墟や作業場の跡のような場所もありました。果たしてこれが何に使用されていたのかは分かりませんが結構大きな窯なので、日常使いではなかったことは確かでしょう。

謎の巨大な窯
当たりの廃墟には作業道具などが散乱していた

現存する貴重な遺構、木名峠狼煙場跡

窯のあった場所から少し進むと木名峠狼煙場跡があります。ここはかつて異国船が日本へ来航し始めた時代に、船の到来を知らせるために設置された狼煙場なのだとか。ノロシを「狼煙」と書くのは狼の糞を松の青葉に混ぜて燃やすと、煙が空に向かって真っすぐ上がるという中国の伝説が由来だといいます。そのため、狼煙場には常に一定以上の狼の糞を蓄えておかねばなりませんでした。

この場所には休憩所のような場所も設けられており、かつて観光地化しようと試みた形跡がありましたが、今ではほとんど訪れる人のいない隠れスポットと化しています。

狼煙場を示す記念碑、昭和61年に建立された
狼煙場だけあって見晴らしは最高だ
ここで火を燃やして狼煙を上げたらしい

枝郷である頼母へ至る道を発見、だが今回は見送り

元盛松には枝郷にあたる頼母集落もこの付近にあります。頼母はこの地では珍しく水田を開墾し、米が採れた土地であり、1968年ごろまでは家畜を使った稲作が行われていました。今でもその水田の跡が残っており、6月から8月にかけての時期は半夏生の群生地として美しい風景を見られるのだとか。

残念ながら今回は時間との兼ね合いもあり、この頼母は見送ることにしましたが、いつかまた必ず取材に訪れたい場所です。

頼母への道を示す道標
これは道なのか・・・?

限界まで車で進み、徒歩で険しい山道を下る

荒れた林道をしばらく進むと、元盛松と書かれた道しるべを発見。どうやらここからは車を降りて徒歩で行くしかなさそうです。集落までのルートの途中にも道しるべがいくつかあるので、初めてでも迷うことはないでしょう。車を降りてから大体30分ほど歩くと集落へ辿り着きます。

道中にはこのような道標がいくつもあるので迷うことはないだろう

山道の中間辺り、大海原を望む絶景にしばし見惚れる

険しい山道をしばらく進んでいくと、不意に大海原を望む絶景が現れました。ここまでの疲れも吹っ飛ぶぐらいの美しい景色に取材班一同、感動してしまいました。かつてこの道を行き交った人々も同じ景色を見たのでしょうか。どこまでも続く海に思わず見惚れながら、ここでしばし休憩を挟みます。

ふいに現れた絶景にしばらく見惚れる
ただし下は断崖絶壁、景色に気を取られて足を滑らせないように

長大に築かれたシシ垣を発見、元盛松はすぐそこ

そこからさらに進んでいくと、長大な石垣が現れました。これは「シシ垣」と言うそうで、農作物を猪から守るための防護壁だそうです。一見するとまるで城壁のようにも思えます。畑に適した土地が少なかったこの地では、獣害は死活問題であり、これだけ大規模な石垣が積み上げられていることにも納得がいきます。このシシ垣を越えると集落はもうすぐそこです。

シシ垣は長い年月を経て木に侵食されている
シシ垣はずっと向こうまで続いていた

遂に元盛松集落へ到達、その威容に圧倒される

集落に近づくにつれて、段々と石造りの遺構が増えていきます。集団移住に伴い家屋は解体し、移住先へ移築したそうなので、現在建物は何一つとして残っていませんが、石畳の道や、建物の基礎部分だと思われる石垣などは健在で、当時の集落の様子を朧気ながらも想像することができます。盛期には27世帯もあったと記録が残されていますから、それなりに規模の大きな集落だったのでしょう。

運動場跡、かつて子供たちに愛された”跳び箱石”

集落に到着したらまず見えてくるのが平坦な広場らしい場所。ここは1923年ごろに設置された分教場の運動場だったそうです。運動場跡には直径1mほどの丸い石があり、この石は「跳び箱石」と呼ばれ子供たちに親しまれたのだとか。今はそのほとんどが地中に埋まっており、頭の部分がひょっこりと顔を出した状態ですが、かつては集落の子供たちがこの石を跳び箱代わりにして遊んでいたそうです。

今では大部分が地中に埋まっている跳び箱石

集落の中心地へ、まるで古代遺跡のような景色が広がる

運動場からしばらく進むと海蔵寺跡があり、集落の中心部らしき場所へと至りました。まず目を惹くのが海岸へと真っすぐと続く石畳の道、その他にも石垣、用水路の跡などが多数確認できました。まるで古代遺跡を思わせるような光景に、まだ日本にこんな素晴らしい場所が隠れていたんだ感激してしまいました。日本ではここまで石造りで構成された集落も珍しい気がしますね。気が付いたら今までの疲れなど忘れ、夢中で探索していました。

海の方へまっすぐ続く歩道はすべて石畳だ
歩道脇に設置された水瓶、共同井戸の代わりに使用されたという
大規模な石垣は圧巻だ

かつて船着き場があったというゴロタ浜を目指し進んで行く

石畳の道は海岸の方へ伸びており、その先にはかつて船着き場があったというゴロタ浜があります。ゴロタ浜は集落から出られる唯一の浜ですが、周辺は荒磯のため住人は船の接岸に苦心したのだとか。そのような理由でこの集落はこれだけ海に近いにもかかわらず、漁業はあまり発展しませんでした。ここまで来て海を見ないという選択肢はありえない!ということで集落を探索しつつ、ゴロタ浜へ向けて進んでいきます。

船着き場を示す看板
だんだんと波の音が近づいてくる

ついに浜へ到達、眼前に広がる太平洋に感動

海蔵寺跡から海岸へは大体100mほどでしょうか。集落のある森を抜けると、そこには太平洋が広がっていました。幸いこの日は天候に恵まれ、遠い地平線まで見渡すことができました。ゴロタ浜というだけあり、歩くのも困難なほど大きな丸い石がゴロゴロと転がっています。もしかしたら運動場で見たあの跳び箱石はこの浜から運んできたのかもしれません。足場の悪い浜辺を慎重に歩きながら海へ近づいてみると、海は青く透き通っており、そこの方まで見通すことができます。

遠くに見渡せる岩壁は凄い迫力だ
海の水は美しいエメラルドグリーンだった
浜はこのような丸い石で埋め尽くされている

今はもう影も形もない船着き場跡、わずかに残る痕跡

この浜にはかつて船着き場があったらしいのですが、現在では一見するとどこにあったのかも分からないほど何も残されていません。よーく観察してみると、岩に杭が打たれたような穴が空いていたり、岩を削って作った階段のような跡を辛うじて見つけることができます。この辺りは天候によってはかなり海が荒れるようなので、とうの昔に波に攫われてしまったのでしょうか。

ここが船着き場であったことを示す僅かな痕跡

かつてこの場所で暮らした人々に思いを馳せる

眼前に広がる太平洋を眺めていると、どうしてもかつてここで暮らした人々の姿に思いを馳せずにはいられません。約100年前までここで暮らしていた人々も、同じ海を見ていたのです。かつての住民も我々と同じようにこの海を見ながらその美しさに見惚れたのか、それとも、荒磯に腹を立て憎しみを込めた目で海を眺めていたのかもしれません。どちらにせよ、100年という時を超えて同じ景色を共有していることに、筆舌に尽くしがたい想いを抱かずにはいられませんでした。

100年前までここで暮らしていた人々も同じ海を見ていたのだ

もっと知りたい元盛松集落

ここからは元盛松についてさらに深堀していきたいと思います。集落の由来から周辺の情報まで、気になる情報をいくつかピックアップして紹介していきます。

「元盛松」の由来について

もともとは「下松」であり、これは海蔵寺にあった松が首を垂れるように生えており、その松が集落のどこからでも見えたことから、その名が付いたと伝わっています。後に「下」という字は縁起が悪いということで「盛松」と改められました。読みはどちらも「さがりまつ」と言います。

現在では「元」盛松となっていますが、集落から現在の三木浦に集団移住をした際に、移住先を盛松としたことから、元の集落があった場所を元盛松と呼ぶようになったといいます。

海蔵寺跡とされる場所には何も残っていない

枝郷である頼母、太地について

元盛松には頼母、太地という枝郷があり、この2つの集落も同じ時期に無人となりました。この2つの集落についても元盛松と同じく実際に行くことができますが、我々は今回時間の関係で行くことはできませんでした。

頼母の水田跡は現在は湿地となっており、春には半夏生が群生し美しい景色を見せてくれます。この辺りの生活はもともと頼母へ人が移住したことで始まり、そこから元盛松、太地へと派生していったそうです。

太地は「たーじ」と読むそうで、和歌山県の太地町と交流があったこの地の人々がそこと同じ名を付けたのだとか。読みは単に訛ってこのようになったのが由来だそうです。ここには炭焼き窯の跡や、水田、広い浜辺があります。

今回行くことはできませんでしたが、いつか必ず取材したい場所ですね。

周辺の施設情報

元盛松から最寄りの人里である三木浦町には観光でも楽しめる施設が複数あります。いくつか紹介していきましょう。

三木浦ゲストハウス[旧奥地邸]

三木浦ゲストハウスは1950年に建てられた古民家を改装し、ゲストハウスとして再利用されている施設です。民家一棟を贅沢に丸ごと貸し切り、古民家での暮らしを体験できます。美しい海から0分というロケーションは普段の疲れを癒す環境としてはうってつけでしょう。

食事は基本的に建物内の設備で自炊を行うことができ、廃村ツアーを始めとした各種体験メニューも用意されているなど、単に宿泊だけではなく様々な楽しみ方ができるのも魅力な点です。一泊につき一組限定なので、もし利用する際は早めの予約をお勧めします。詳細は下記のホームページにてご確認ください。

織屋-ORIYA-

こちらも古民家を改装し再利用したという海を見ながらお食事や飲み物が楽しめる古民家カフェです。改装はDIYで行っているということで、レトロで素敵な雰囲気に浸りながらゆったりとくつろぐことができます。営業時間や定休日に関しては都度変更となる可能性があるため、詳細は公式Instagramをチェックしてみてください。

ツアーに参加し、訪れるという方法も

元盛松やその枝郷である頼母、太地へは、ツアーに参加し訪れるという方法もあります。ツアーには事前の申込みと参加料が必要になりますが、地元のガイドさんが案内してくれるので、道に迷わずスムーズに現地まで行くことができます。道中は危険も伴いますので、廃村探訪に不慣れな方はこういったツアーを利用してみても良いでしょう。

ツアーは3種類ありそれぞれ元盛松コース、頼母コース、太地コースとなっています。所要時間もコースによって異なりますので、予定を立てる際には事前に下記のホームページで確認しておきましょう。

元盛松集落についてまとめ

三木崎から眺望できる三木浦町の眺め

今回は廃村である元盛松集落をご紹介しましたがいかがだったでしょうか?数ある廃村を訪れた筆者にとっても、この場所は本当に特別な場所となりました。そのロケーションや残された遺構の数々、集落から見えるどこまでも続く大海原。恐らく、訪れるまでの苦労がたどり着いた時の感動を何倍にも増幅させてくれるのでしょう。

集落へは険しい道のりが続きますので、訪れる際の注意点などはぜひこの記事を参考にしてみてください。また、訪れた際には最低限のマナーを守り、この素敵な場所がこの先いつまでも遺り続けるよう、思いやりのある行動を心掛けていきましょう。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう!

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