2022/07/18

後谷集落の歴史 – かつて鉱山で栄えた山村の過去と現在

今回は滋賀県の多賀町に位置する後谷集落の歴史について紹介していく。全国的に見ても既に定住者が存在しない無住集落の多い多賀町だが、この後谷は周辺の他の集落とは少し違った歴史を歩んだ場所だと言えるだろう。

また、今回この記事を執筆するにあたり、この集落の歴史について記した書籍である「消えゆくある小さな山村の話」を大いに参考にさせて頂いた。著者である瀬河氏には直接コンタクトも取らせていただき、現地で集落についてのお話も伺うことができた。その様子はhistoricaのYouTubeチャンネルでも紹介しているので、是非観てみてほしい。

周辺環境について

標高約400mほどの山間部に位置するこの集落は周辺の屏風、甲頭倉、桃原などの8ヶ村とともに旧芹谷村を構成していた。旧芹谷村は昭和16年に多賀町に吸収されたため現在は存在しない。集落の背後にはかつて栄えた鉱山跡が今でも残されている。

後谷の成立ち

元は平家の落人がこの場所へ落ち延びて構成されたと伝わる。後谷に限らずこの辺りの集落には総じてこういった落人伝説が言い伝えとして残っているが、その確かな根拠を示すものは殆ど残っていない。とはいえ、他にこの集落の成立ちを示すものが残されているわけでもないというのが実情である。この集落の姓を調べてみると20近い姓が存在していたことが分かる。仮に平家の一族が開拓したのであれば、ここまで異なる姓が存在することに疑問は残る。

後谷の暮らしについて

かつての人々はどのような暮らしをしていたのか。鈴鹿山麓生活誌の「山村に暮らす」の中には、この集落最後の定住者であった一人の女性の文書が残されている。今回はこの「山村に暮らす」の中で掲載されたそれらの文書の一部を抜粋して紹介する。

おかいこさんと水汲み

夏蚕と秋蚕と二回続けて飼うと、お盆が忙しい最中と重なる。

繭を作るのに藁で「すご」というものを作る。それを手際よく「ざらむしろ」の受けにさっとのばして敷いて「すき蚕」を拾って「すご」の中へ入れる。上段から詰めていき、何段できたか数えながら作る。この数を間違えてよく叱られた。

その頃は水道もなく川上から家の台所の隅にある大きな「かめ」に水を汲むのが私たち最大の仕事。学校から帰ると妹と二人で一つの桶に「さし荷い」して何回も通ったものでした。

雪の日と青いマント

毎年十二月になると必ず雪が降る。

学校へ着くともう冷えあがっていました。ストーブも無かった頃で、教室には三尺四方の箱火鉢が一つ置いてある限りで、炭がついでありました。そばに寄ってあたりたくとも、男の人に占領されて女はそばへも寄り付けなかった。

来る日も来る日も雪が降る

私の友達はみんなその頃流行りの青色のマントを着ていました。私は高学年になってもとうとう着られませんでした。私の着ていたのは、大人の学生の着る丈の長いマント。男の子から「貫一、お宮」とからかわれました。恥ずかしいので学校が近づくと脱いでいき、帰る時も学校から離れてから着ました。

味噌搗

寒中から三月までの間、あちらこちらで豆の煮える匂いがしました。彦根まで麩を買いに行き、塩と合わせてそれを用意してから大豆を洗って、一晩水に浸けて、土間の奥庭にある大きな釜で一日中煮るのでした。充分に煮えないうちから豆をもらって食べるのが楽しみで、おやつなどもらえなかった昔、叱られながら豆をせがんだ日が懐かしく思い出されます。

石灰岩採石場と発展

このような山間集落の例に漏れず、後谷も元は住人の殆どが林業を生業として、炭焼きなどで僅かな現金収入を得ながら、半ば自給自足の貧しい暮らしをしていた。しかし、1935年にセメント会社が後谷で鉱山の操業を始めたことによって、住民の生活は一変した。後谷の住人の多くが鉱山で雇用されたことにより、毎月安定した現金収入を得られるようになったのである。また、近隣の村々からも多くの労働者を雇用したことにより、集落内には社宅や商店、電話、大浴場といった施設が設置され、水道を始めとした各種インフラの整備も行われた。こうして後谷は瞬く間に近代化を成し遂げたのである。

しかし、こうした近代化によって住民の間に貧富の差が生まれるようになったという。「消えゆくある小さな山村の話」の著者も、著書の中でそれまでは1つの共同体で寄り合って暮らしてきた人々の心の中に、徐々に利己主義や個人主義的な考えが蔓延していったと書いている。皆が貧しい山村での暮らしは、お互いが助け合わなければ生きていくこともままならない。その反面、それぞれが財を築き、ある程度の自立が可能となれば、人間関係を損得勘定するようになっていくのは、ある意味自然の流れであるようにも思う。このような山村での暮らしや風習、文化というものは、近代的な豊かさとは相反するものであるのかもしれない。

しかしながら、このような発展も永遠には続かず、ほどなくして鉱山が閉山となったことにより、後谷も他の集落と同様、衰退の一途を辿ることになる。雇用や生業を失った場所に待つのは、急激な人口流出による過疎化であり、これは後谷のような山間集落には共通して起きた事象である。一度国の近代化が為されれば、経済の循環が生まれない場所に人は集まらないのである。

後谷の寺と神社

後谷では現在でも神社と寺が残っている。この項ではそれぞれの場所について言及していく。

光遍寺

浄土真宗本願寺派の寺院で、1393年に現在の光遍寺の前身である不卜庵明照寺が創建される。それより以前は天台宗不卜庵であったという。1506年に後谷の住人を含めた有志が本願寺第9世である実如を賊の被害が救い出したことを機に、同年には実如が滞在し周辺の教化に努めたと伝わる。当時は現在の位置よりも30mほど上にあったと伝わるが、過去の大火によって焼失している。その後に現在の位置に再建されたが、1943年に再び大火が起こり焼失。現在の光遍寺は三代目にあたる。

後谷神社

祭神は応神天皇で、創建は不明である。昔から鳥居はなかったようで、恐らく過去の火災で焼失したのではないかと元住人の方は著書の中で語っている。1974年に雪害により社殿が倒壊したが、1976年に改修された。毎年、春祭りは4月15日、秋祭りは9月17日であった。秋祭りの際には多賀大社から司祭を呼びお祓いを行っていた。

後谷の現在

現在の後谷に定住者は存在しない。「消えゆくある小さな山村の話」の著者でもある瀬河氏の一族が、冬季以外の時期に定期的に集落を訪れ、辛うじて維持管理をしている状態である。集落には、一級建築士でもある氏が、自ら建設したという真新しい山小屋がひっそりと存在している。ここを拠点に日々集落の環境保全に尽力されているのである。瀬河氏は、自分の子や孫の世代が将来的に集落の管理を受け継いでくれることを期待していると語る。

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