2022/06/02
入谷集落の歴史 – 霊仙山の麓に栄えた山間の集落2021/08/29
宇連集落の歴史を紹介:隔絶された場所で暮らした人々の歴史
historica運営の安藤です。今回は先日取材に訪れた宇連集落の歴史をご紹介します。
「地域の歴史」では我々が訪れた場所の歴史をわかる範囲で紹介していきます。主な情報源は、現地の方々のお話や、街の図書館などにある資料となります。情報はなるべく正確になるよう心掛けておりますが、間違っているものがあれば遠慮なくご指摘ください。
目次
先史時代~古代 – 数千年前の人々の営みの痕跡を見る
このあたりの地域では縄文時代の土器が発掘されており、遅くとも2500年ほど前からは人の営みがあったと考えられる。その後の弥生~古墳時代に関しては、地形的に当時の人々の生活に適していないことから、このあたりでの活動はなかったと考えられている。
鎌倉~室町時代 – 宇連集落の始まり
中世になると再び人の定住があったようである。この辺りで鎌倉~室町時代のものと思われる山茶碗や天目茶碗が発掘されている他、一石五輪塔も複数発見されている。 五輪塔に関しては現存しており、一説では集落の開発に関りがあるのではないかと言われている。また、亀次郎なる神職が書き記した「宇連神社記録」によると、この五輪塔が当時から周囲の人々の信仰を集めていたとあるが、この書がいつの時代に書かれたものかもはっきりしないため、真偽のほどは不明である。
近世~近代 – 宇連の人々の暮らしと集落の終焉に至るまで
近世~近代になると資料も充実し始め、宇連で暮らした人々の輪郭がぼんやりと見えるようになる。現在では既に廃村となったこの集落は、その隔絶された地勢もあり、常に貧しい生活環境にあったようである。ここからは近世以降の宇連の変遷を見ていくことにする。
宇連集落の戸数の記録について
宇連集落の戸数は盛期においても25戸と小規模な集落であった。以下は各年代の戸数の変遷である。
年代 | 戸数 | 人数と内訳 |
1828年 | 16戸 | 不明 |
1837年 | 16戸 | 不明 |
1872年 | 6戸 | 不明 |
1877年 | 6戸 | 33名 |
1947年 | 14戸 | 69名 |
1950年 | 25戸 | 95名(男55名:女40名) |
1967年 | 4戸 | 不明 |
まず、1837年から1872年に至るまでに16戸から6戸に激減しているが、これは天保の大飢饉の影響だと思われる。次に特筆すべきが、1877年から1950年にかけての戸数の急増であるが、これは次男三男が徐々に分家・独立したことや、製炭者が多数入村したためだと思われる。おそらく戦後のこの時期が宇連集落の最盛期だったと思われる。
しかし、町村合併促進法によって町村の合併が進められると、1956年に設楽町と鳳来町のどちらと合併するか、集落の中で激しく意見が分かれ、大きな対立が起こった。このような出来事や、兼ねてより問題となっていた教育環境の劣悪さを理由に、1959年ごろから急激に人口が減少し始め、1967年頃には僅か4戸を残すのみとなった。
宇連集落の産業と経済について
宇連には歴史を通してこれといった産業がなく、畑や山仕事に頼る生活であった。製炭が主であり、木材の伐採、木挽き、川を利用した流送などで経済を支えていた。また、「遠州の森林王」と称される金原明善の所有する山が地区内にあり、ほとんどの住人はこの山での仕事に従事していた。その他には家畜の飼育も行われたようだが、これは集落の極一部に過ぎず主要な産業ではなかった。
宇連集落の交通・通信について
既に述べたように宇連は地勢的に孤立しており、他地域との交通が極めて不便であった。最寄りの神田でも約6kmの山道を徒歩で行かねばならず、荷の運搬なども主に人の背を頼っていた。宇連に入る荷を「上げ荷」、宇連からでる荷を「下げ荷」と言った。上げ荷は味噌や米などの生活必需品が主で、下げ荷は木炭が殆どであった。宇連の南方にある河合には「荷しょいさ」と呼ばれる女性が大勢おり、荷の運搬作業に従事していた。木材の運送にようやくトラックが使われだしたのは、戦後になってからのことである。
また、新聞も配達されず、郵便も3日に1度しか集配されず、住民が外の情報を得る手段はラジオのみであった。集落には電気もなく、石油ランプでの生活が廃村となるまで続いた。
宇連集落の教育について
1947年に住民待望の分校設置が認められ、木炭倉庫を仮校舎として、振草村立神田小学校の宇連分校として発足した。教師は台湾から引き揚げた中曽根 勇という人物で、当時の児童数は14名であった。分校の設置により、これまで6kmの険しい山道を約2時間掛けて通学していた悩みが解消された。
翌年には新校舎が建設されたものの、設備は不十分であり、教師も1名しかいなかったため運営は困難を極めたが、住人が一丸となって教育に取り組んだ。また、年に数回は本校と運動会や学芸会を通じて交流を行った。
宇連分校は「山の分校」として度々マスコミにも取り上げられたが、生徒数の減少などを理由に発足から20年後の1967年に廃校となった。この時の生徒数は僅か3名だった。
分校の校舎については、2020年末頃まで放棄されながらも残っていたが、2021年8月時点では屋根から完全に崩壊しており、瓦礫の山と化している。
宇連集落の医療事情について
病院も診療所もなく、なかなか医者の診察を受けることはできなかった。稀に現鳳来町から医者が往診しに来ていたが、それも山道を2時間掛けてのことだったので、救急にはまるで対応できる環境ではなかった。
宇連集落の信仰について
平安時代の勧請と伝わる諏訪神社があり、祭神は建御名方命である。宝物は三寸五分の鎌と矢一束であったが、現在は鳳来町河合の諏訪神社に移管されているという。参道入口付近の巨大な岩の上に牛頭天王の碑があり、夏祭りの際はここで花火などをしたという。
境内には1693年に奉納された灯篭があるが、これは現新城市海老から行商に訪れた魚屋の寄進だと伝わる。この他に、本殿前の参道横に嗽盥が置かれているが、これは佐藤彦蔵なる人物の奉納だという。 彦蔵は国内有数の長寿として知られた人物で、1810年に宇連地区で生まれ、1917年に享年108歳で老衰により他界した。彼が104歳の時に恩賜金の一部を割いて寄進したという。
神社のほかに寺があったとされるが、現在は地名としてその名残が残るのみである。その寺は現鳳来町河合の「智蔵院」の前身にあたると言う。宇連には極小規模な阿弥陀堂が現存しているが、2021年8月時点では放棄され、堂内の仏像もどこかへ持ち去られている。
宇連集落が廃村となった時期
この集落が無人となった正確な時期は不明だが、資料から推察するに1970年代後半~80年代前半の間ではないかと思われる。いずれにせよ戦後になり時代が進むにつれ、周囲とは隔絶された山村での暮らしは徐々に時代に則さなくなり、自然消滅のような形で廃村となったと思われる。
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