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西洞集落の歴史 – 農地を求め各地に散った住人達のルーツを追う
今回は岐阜県山県市にかつて存在した集落、西洞について解説していく。1970年に廃村となった集落のため、現在定住者はおらず、元住人が時折訪れるのみとなっている。環境的に見ても、近い将来歴史に埋もれる可能性が高い集落となっている。
西洞集落の成立ち
集落は江戸時代初期にはすでに形成されていたようであり、一説では戦国時代から江戸時代初期にかけての武将であった、長屋景重(ながや かげしげ)に関連する一統がその由来であったという。
1582年に所領であった田口城が落城、その後、この辺りに落ち延びた人々が住み着いてできたのが西洞集落の始まりであったと伝わる。実際にこの地にあった神社に奉納されていた刀には、長屋景重を示す銘が刻まれており、これらの言い伝えに一定の信ぴょう性を持たせてる。
田口城について
田口城については、現在の岐阜県関市板取の城跡がある。城跡の近辺には、南方の山腹に物見の「鐘撞堂」跡や楢の瀬の尾根に「待ち濠」。領地を守るため戦った多くの戦士を葬った「千人塚」などがあると書かれているが、その場所を確認することはできなかった。今となっては当時の姿を想像するしかない状態である。
長屋景重について
室町時代の末期に長屋景興の末子として垂井城で産まれる。長屋景興が斎藤道三に攻められ長屋氏が没落した後は、縁戚であった長屋道重の養子となる。その後、織田信長の美濃侵攻の際には郡上八幡城主であった遠藤氏に攻められ降伏し田口城へと移る。この際に長子であった喜蔵を人質として金森長近に送り、臣従を誓う。この喜蔵が後の金森可重である。
その後、田口城が有知の佐藤方政に攻められ落城、景重は実子である金森可重を頼り、夫婦共々飛騨国の増島城に落ち延びた。可重は岐阜県飛騨市古川の林昌寺を隠居所として、両親を住まわせた。この林昌寺の墓地には長屋景重のものと伝わる墓石が今でも残されている。
西洞集落の生業
近代における生業は炭焼き、こんにゃく芋栽培、林業などがあった。集落に建立されている人家分布図には大理石採石場の記載もあり、実際、集落内には石材関係の企業が存在していた痕跡が確認できた。元住人の話によれば、石材を生業としていたのは一部であり、殆どの住人は林業に従事していたという。
西洞住民の移住の特徴
西洞の住民の移住については、他の岐阜県内の例と比べても少々異なっている。このような廃村集落においては、戦後の高度経済成長による都市部への人口流出、災害をきっかけとした過疎化などが主な要因となる場合が多い。しかし、この集落の場合は、早くは大正時代より稲作が行える広大な農地や食料を求めて住民が移住を始めていたことが分かる。また、滋賀県や静岡を始めとして、北は北海道から南は九州地方まで全国各地に住民の移住先が散っているのである。
先祖代々の地を離れ、更には遠く県外まで出ていく住民が多かった理由は不明だが、これは西洞独自の特徴的な移住の例だと言えるだろう。
西洞集落の人口の推移
ここでは各資料から判明した年代別の集落の世帯数と人口を紹介する。
年代 | 世帯数 | 人口 |
1955年 | 22 | 118 |
1969年 | 7 | 24 |
1970年 | 0 | 0 |
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