2022/06/02
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夏焼集落の歴史 – 集落の成り立ちと暮らしについて解説
今回は夏焼集落の歴史について解説していく。夏焼集落は静岡県浜松市天竜区水窪町奥領家の山間に位置する廃村である。廃村になった時期は2015年と最近までは居住者がいたことから、廃村としての歴史は浅いと言えるだろう。夏焼集落はそのロケーションも相まって、廃村の中でも全国的に知名度の高い集落であるが、その歴史については意外と知られていない。そんな夏焼集落の歴史を深堀していく。
また、取材班による現地レポートは別の記事にまとめられているので、集落の現在の様子などに興味のある人は下記の記事を参照してほしい。
目次
夏焼集落の成り立ち
町史によると、夏焼集落の始まりは16世紀後半ごろまで遡ることができる。信州神峯城主であった知久氏は侵攻する武田氏に対し籠城したが陥落、その後一族は散り散りとなるが、各地に散った一族の一人である知久頼氏は徳川氏に身を寄せることになる。その後、武田氏が滅亡すると、紆余曲折の末、旧領を安堵され約30年ぶりに頼氏の下で知久氏が再興されることとなる。その後も頼氏は徳川の下で各地を転戦するが、1585年に徳川家康の命により浜松で切腹させられている。熊谷家伝記には秀吉方へ寝返ったためだと記されている。
これにより、知久氏の一族は再び離散することになる。家臣であった小林正秋と頼氏の娘である千代鶴、千代子は伊那南条の熊谷家に忍んだ後、坂部熊谷直隆に引き取られる。直隆は親戚であった門谷郷主、熊谷五郎四郎に頼んで、山間の空き地を譲り受け、正秋は家臣に命じてその地を切り開き、土着することとなった。1595年4月には山を焼いて初めて粟を撒いた。4月に焼畑をして始まったため「夏焼」と名付けられたという。
また、夏焼集落の開郷に関連が深い門谷集落の歴史については、また別の記事にて紹介しているので、気になる方はそちらを参照してほしい。
熊谷一族について
現在の天龍村坂部近辺を開郷した一族で、一族400年の歴史を編纂した熊谷家伝記を残したことでも知られる。鎌倉時代の武家から派生した一族で、現在でもその末裔が天龍村に健在であるという。一族が残した熊谷家伝記は中世山村史の重要資料とされるだけでなく、日本の民俗学においても著名な資料である。
知久氏について
知久氏は戦国時代の武家の氏族で、元は諏訪氏から派生したと伝わる一族である。鎌倉時代に現在の飯田市下久堅(知久平)に移り、戦国時代には神ノ峰へ移ったという。その後は上述の通りであり、紆余曲折ありながらも19世紀ごろまでは存続したようである。夏焼に土着した頼氏の娘、千代鶴、千代子に関しては、その後の知久氏との関連性は不明である。
夏焼集落での暮らし – 人口、生業について
焼畑は山林や原野を焼いてその灰を肥料とし、雑穀を栽培するものであり、その歴史は古く原始時代にはすでに行われていたという。夏焼集落でもこの焼畑は生活していくうえで欠かせないものであり、1676年の記録では夏焼だけでも37枚もの畑があったという。
山村で行われる焼畑とはどういうものだったのか
江戸時代のこの地域の人々はすべからく百姓であり、医者であろうと商人であろうと必ず農業を行っていた。しかし通常の田畑だけでは生活を維持するだけの食料を確保できないことから、不足分を補う目的で焼畑が盛んに行われた。
焼畑は山林や雑木林を焼き払い、その灰を肥料とし、ソバ、アワ、ヒエ、芋などを作りこれを2~3年繰り返す。その後は土地が痩せ収穫量が減少するため、2~3年ほど土地を放置した後、再び焼畑とした。このように放置期間を設ける必要があることから、比較的小規模な夏焼集落でも多くの焼畑を保有する必要があった。
獣害対策における悩み
焼畑において、イノシシやシカなどによる獣害の悩みは常に付きまとったようである。これらの獣は収穫期に実った作物を荒らすので、百姓にとっては死活問題であった。こと江戸前期に生類憐みの令が制定されると、これら害獣であっても殺生することを禁じられたため、獣の数はおびただしく増え、畑どころか家の軒下まで荒らされる始末であった。このようなこともあって1688年には害獣の殺生の許しを請う願書が出されているほどである。
夏焼集落の人口について
夏焼集落の人口について、記録のあるものを下記に掲載する。
時期 | 戸数 | 人口 | 男 | 女 |
1677年 | 4 | – | – | – |
1713年 | 3 | – | – | – |
1808年 | 4 | 19名 | 11 名 | 8名 |
1920年 | 19 | 69名 | 44名 | 25名 |
1967年 | 7 | 35名 | – | – |
夏焼集落の神社について
夏焼集落には諏訪神社と水天宮があるが、神社の境内には仏像も共に祀られているのが特徴的である。この背景には佐久間ダムの建設が関連しており、ダム建設にあたって湖底へ沈むことが決まった周辺の集落の神仏を、この夏焼集落まで移管したのだという。夏焼集落には寺がなかったため、仏も神社の境内に祀られているというわけである。
最後に
以上が町史などから得られた集落の歴史についての情報である。こうして調べてみると、すでに廃村となった集落であっても数百年の歴史を有しており、こういった歴史を知ることで集落へ赴いた際の見方も大いに変わってくるものである。我々historicaは今後もこういった歴史に埋もれた人々の営みを再発見し、未来へ発信していく次第である。
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