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十津川村の歴史 – 勤王として独自の文化を築いた人々の歴史を紹介
今回は奈良県の南部に位置する十津川村の歴史について解説していく。日本で一番大きな村として有名なこの村は、その面積のほとんどが山に囲まれており、現代でも電車や高速道路が一切開通していないなど、外部からのアクセスのし難さからしばしば秘境として取り上げられる。そんな周囲とは隔絶された地勢もあって、半ば独立した共同体として独自の文化を築き上げてきた歴史がこの村にはあり、それは明治維新に活躍した十津川郷士などを見てもよくわかる。
以降はそんな十津川村の歴史について紐解いていく。
目次
十津川村の成り立ち
その成り立ちについては、明確な資料が存在しないため正確なところは一切分かっていない。十津川の存在が初めて資料に現れるのが、1142年の「高野山文書」においてである。この時は「遠津川」という名称で登場しており、港を表す「津」から遠い場所にあることからそう呼ばれたという説がある。
このことから、少なくとも12世紀以前から現在の十津川村の辺りで一定規模の共同体が形成されていたことは確かであり、それは半ば伝説として語られる古代の言い伝えにも、僅かばかりの信ぴょう性を与えるものになり得るかもしれない。以降は古代から順に十津川の歴史を追っていく。
古代(神話の世界)の十津川
前述の通り、この時代については確かな資料が一切残されていないため、伝承として伝わるものをいくつか紹介していく。この地域で暮らした人々がどのような経緯で独自の文化を形成するに至ったかを知る幾許かの材料にはなるであろう。
十津川の人々の祖先について
十津川の祖先については古くからいくつかの説が存在しており、そのどれも伝承の域を出ないが、中でも可能性が高そうなものを順に紹介していく。
土蜘蛛説
土蜘蛛とは古代日本においてヤマト王権に帰順しなかった地方豪族のことを指しており、単一の集団を指して使用される呼称ではない。その地勢上、中央権力とは隔絶されていたであろうことを考えると、十津川の人々が土蜘蛛とされたという説も否定はできないであろう。
八咫烏説
初代天皇である神武が東征において、熊野方面へ進軍した際に道案内として天照大神が遣わしたとされるのが八咫烏であるが、これが十津川の祖先であったのではないかという説である。ここに十津川を連想させる記述は一切見られないものの、この険しい山々が連なる土地の道案内が可能であったことなどがこの説の根拠であるとされている。
言うまでもなく、これらの伝承は古事記や日本書紀に記された神話であり、史実性に関しては限りなく薄いと思われる。これらの少ない判断材料から想像するしかないことからも、この時代の資料が如何に乏しいかが分かるだろう。
玉置神社の創建
社伝の『玉置山縁起』によると、崇神天皇によって紀元前1世紀ごろに創建されたと伝えられる玉置神社は、古くから十津川の人々の鎮守であった。現代では世界遺産を構成する登録資産として、十津川村内外か来る参拝客で賑わう由緒正しい神社である。
三韓征伐への参戦
神功皇后が起こした三韓征伐には十津川の人々も参戦したと伝わっている。三韓征伐自体いつ頃行われたのかも正確には分かっていないが、仏教を始めとした異国の宗教の伝来も含め、この時期に起こったこれらの出来事が、十津川のその後の文化に大きな影響を及ぼした可能性は高いとされている。
壬申の乱への参戦と諸税勅免地
672年に起こった壬申の乱では天武天皇の側で参戦し、大きな功績を上げたという。その功が認められ、諸税勅免地となったと伝わる。以後、明治に至るまで十津川の民は常に勤王としてあり続け、免租特権を維持し続けた。
中世の十津川
資料としてはようやくこの時期から遠津川の名称が登場し始め、おぼろげながらも当時の十津川の動向を伺い知ることができるようになる。
南北朝時代
後醍醐天皇と武士団の長であった足利尊氏が対立し起こった南北朝時代には、吉野(現在の奈良県南部)に樹立された後醍醐天皇率いる南朝に味方している。十津川の民に対して南朝に尽くすよう命じたと伝わる文書が現在でも残されており、南朝にとって本拠地であった十津川近辺の民を重要視していたことが分かる。
また、これらの経緯からこの地の重要性がより一層増加し、後の十津川の発展にも大きく寄与したであろうことは想像に難くない。
近代以降の十津川
16世紀後半に実施された太閤検地においても、十津川の免租特権は引き継がれていることが分かっている。ここに至っても免租特権が維持された理由としては、単に地勢上、十分な年貢を期待できなかったからというだけではないだろう。
古来より幾度となく戦に参戦し功を上げてきたことからも、この地の人々は武勇に優れていたことが分かる。故に時の権力者たちは反乱を起こされるリスクを恐れ、免租特権を与え続けたのではないか。山々の連なる困難な地勢も、この地の反乱を恐れた理由となったであろう。
大坂の陣
1614年から翌年にかけた行われた大坂の陣では、徳川方として1000人から成る十津川の民が参戦したという。この時にも近隣で起きた豊臣方の一揆を鎮圧した功を上げたことから、天領となり免租特権を与えられ、住民は「郷士」と名乗ることを許されたという。これが後の世で活躍する十津川郷士に続くのである。
十津川郷士について
これまでに述べた通り、古来より武勇に優れていた十津川郷士は、幕末の時代において度々その名を表している。以下は十津川郷士が活躍した有名な出来事について述べる。
京都御所の警護
十津川郷士は1860年頃にその勇猛さを認められ、薩摩・長州などと並んで京都御所の宮廷警護に任命され、1872年頃まで宮廷警護を続けている。その中には居合いの達人として名を馳せた中井庄五郎の姿もあった。この宮廷警護を通じて多数の尊王攘夷志士と交わった結果、十津川郷士の中に尊王攘夷の思想が醸成されていったという見方もできる。
天誅組の変
十津川郷士は公卿であった中山忠光を主将とし、土佐脱藩士である吉村虎太郎などが中心となって決起した天誅組に深く関わりがあったことでも知られている。天誅組は尊王攘夷の中でも武力による倒幕を目指す過激派であった勢力である。天誅組が1863年に挙兵すると、幕府天領であった五條を襲撃しこれを本拠地とした。
しかし「八月十八日の政変」により天誅組の存在は天皇の真意ではないとされ、暴徒として追討の命が下された。これにより天誅組はその活動の正当性を失い窮地に立たされることとなる。また、装備・兵力共に十分ではなかったことから、古来より尊王として知られていた十津川郷士に協力を求めることになる。郷士であった野崎主計らと会談を行った結果、十津川郷士は天誅組の活動に賛同し、村々からは約1000名もの郷士が参加したという。しかし、この時点で十津川郷士らは、朝廷で政変があった事実を知らなかったとされている。玉堀為之進らをはじめとした郷士の中には、天誅組に賛同しない者も数名いたが、後に斬首されている。
天誅組は装備の劣悪さに加え、指揮系統の統率がとれず徐々に幕府軍に追い込まれていった。それに伴い多くの十津川郷士が離脱したものの、未だ朝廷の情勢を把握しておらず、依然として天誅組の側として参戦し続けた。いよいよ、戦局は終盤に入り、軍は十津川郷に籠城し決戦を決意するも、ここで十津川郷士であり、京都御所の警護を勤めていた上平主税が帰郷。代表者を集めて朝廷の情勢を説明したことで、十津川郷士は天誅組からの離脱を決意。戦闘から郷を守るため、軍に退去を求め、天誅組での活動を主導した野崎主計も自刃するに至った。
諸税勅免地の終焉
1867年に明治維新によって江戸幕府が倒れると、日本の情勢は大きく変わっていくこととなる。十津川郷士も天誅組の変以降は高野山挙兵に参加した後、戊辰戦争に従軍するなどで功を立て士族となっていた。1873年に地租法が改正されると、十津川村も遂に有租地となり、7世紀から実に1000年以上も続いた免租地としての歴史に幕を閉じた。
1899年の大水害
1899年8月に起こった大洪水では、死者168名、負傷者20名、村の家屋や田畑の大部分が壊滅状態となり、再起不可能なほどの被害を被った。生活の立て直しを図るため、政府の方針に従い600戸2,489人が北海道に移住、現在の新十津川町を開拓する。この二つの十津川村は現在でも盛んに交流が行われているという。
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