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百夜月の歴史 – 陸の孤島と化した伝説の集落に纏わる数々の伝承
三重県熊野市の僻地に存在する百夜月と言う場所をご存じだろうか?その珍しくも美しい名を聞いただけで、ここは一体どういう場所なんだろうと興味が湧いてくるだろう。この地には様々な伝承が存在し、そしてその長い歴史において、常に多くの人々を魅了し続けてきた場所である。今回はそんな百夜月を紹介していこうと思う。
そしてこの地を取材するにあたって、急な依頼であったにも関わらず快く百夜月までの案内を引き受けていただいた東氏に、最大限の感謝を申し上げます。
百夜月の地勢
百夜月は三重県熊野市に存在する無住集落(廃村)である。和歌山県、奈良県、三重県の県境が交わり、北山川が流れる山間に位置するこの集落は、陸路からのアクセスが事実上不可能となっており、まさに陸の孤島と言える地勢に位置している。道路が存在しなかった昭和30年頃までは、この辺りの人々は渡り舟を用いて対岸まで移動を行っていたという。
その為、現在安定して機能している交通手段は存在せず、現地に到達するには関係者の協力が必須の場所となっている。北山川は水深も深く流れも速いため、間違っても泳いで渡ろうなどとは思わぬよう、ここで注意喚起をしておく。我々は今回、幸運にも元住人にお会いすることができたため、現地に赴くことができた。
百夜月の由来
百夜月という地名の由来にはいくつかの伝承が存在している。まずはその中でも最も有名だと思われるものを紹介しよう。伝承には1人の尼僧が登場し、この尼僧を起点に話が進行していく構成になっている。伝承の概要は以下の通りである。
伝承その①
竹筒の少し南の北山川の対岸に、百夜月という村がある。そこに、光月山紅梅寺という古い寺があった。寺の庭には紅梅があり、春にはたいへん美しい花を咲かせ、よい香をあたりに漂わせていた。寺には、一人の美しい尼さんが住んでいた。毎日、仏の教えを広めるために行をしたり、読書をするなどして静かに暮らしていた。また、寺の周りを開いて野菜も作っていた。この尼さんは、近くの村の若者たちのあこがれの的であった。 しかし、真剣に仏の教えを広めたり、読書にうち込んでいる尼さんは、若者たちのことなど考えてみたこともなかった。
さて、対岸の村に一人の若者がいた。彼は、寺の畑で働く尼さんの姿を見てから、心の中は尼さんのことでいっぱいになってしまった。ぜひ会って話がしたいものだと思った。そして、月のない闇夜になる日を待った。「よし、今夜こそ川を渡り、尼さんに会って来よう。」と決心した。やがて夜になった。川の音さえもシーンとして流れているようであった。川底をつき刺す棹の音だけが闇の中に響いた。
川の中ほどまで来たときである。対岸の山から突然、大きな月がヌッと顔を出して、あたりが急に明るくなってしまった。「これは困った。こんなに明るくなっては、誰かに見つかってしまう。人に知れたら、尼さんにたいへん悪いことをしたことになる」と考え直した若者は、急いで舟をひき返し、とぼとぼと家に帰った。
次の夜も、その次の夜も、また次の夜も若者は北山川を渡ろうとした。しかし、川の中ほどまできたとき、月の光がまぶしくて、どうしても渡ることができなかった。「今夜で何度目だろうか。」 若者は、一、ニ、三と指をくってみた。すると、すでに九十九日目であった。若者は、このことを母親に打ち明けてみた。
母は、「ああ、なんともったいないことを…。よりによって尼さんを好きになるとは……。あの方は、仏の教えをお守りし、広めている方だから、お前なんかとてもとても……。そんな気持ちを持つことも恥ずかしいことだよ。」「あのお月様は、悪いことを人間がしないように、いつも地上を照らしているのだよ。だから、お前が百夜通っても、川を渡ることはできないのだよ。」と、諭した。若者はとても悲しんだ。 「お月様もあの尼さんを、お守りしているのか」それから、尼さんの住んでいるむらを百夜月と呼ぶようになった。
ところで、尼さんは、もっと仏の教えを広めたいと考えた。 そこで、寺に伝わる宝物を近くの村々へ分けて祀ってもらうことにした。そうすれば、信仰も広まると考えてのことだった。
まず、花びんを川下の村に分けた。むら人たちは、紅梅寺の宝物をいただいた、というわけで、お堂を建ててお祀りした。そして、このむらを花井とよぶようになった。川を渡ったむらには、九重の重箱を分けた。この村は、これにちなんで九重という名をつけた。上流のむらには、美しく磨かれた竹の筒が分けられた。ここは 竹筒とよばれるようになった。
そのころ、都では戦が始まり、世の中が騒しくなってきた。そして、この熊野の地方へも、ひそかに都から逃げてくる人が 多くなった。若く美しかった尼さんもすっかり年をとり、やがてひっそり となくなった。むらの人たちは、尼さんのためにお堂をたて、お祀りした。春のお彼岸には、遠くの村々からも、たくさんの人たちが集まり、そのにぎやかさは、たいしたものであったと言われる。
この伝承では、百夜月という地名の由来について言及されており、おとぎ話のようにも見えるその内容を見ると創作の可能性が高いようにも思える。しかしこの伝承がいつどこで生まれたのかという事は分かっていないため、断定はできないのである。そして興味深いことに、百夜月という地名の由来については、この有名な伝承の他にもいくつか存在しているのである。
まずは、より史実性が高いと言われる伝承を紹介する。
伝承その②
時は南北朝時代。この地は百井安友という武将が支配していました。ある日、後醍醐天皇の皇子であった護良親王がこの地に訪れたと言います。親王は北朝との戦の最中、熊野近辺に潜伏していましたが、妻である滋子のお産が迫っていたため、百井氏に妻を託しました。しかし親王が去って間もなく、滋子は難産の末、母子ともに亡くなってしまいました。
これを酷く嘆いた百井氏は、この地に紅梅寺を建て、母子を弔いました。このように、尼僧の伝承とはまったく異なる伝承が、この地には存在しているのです。また、この伝承を裏付けるような説もいくつか存在しています。
この地では土地の管轄を示す際に「〇〇付き」という言い方をすることから、百井家の土地を意味する「百井付き」が転訛し「モモヨヅキ」となったという説が考えられます。現在でも尼僧の墓として寺の裏山に現存する宝篋印塔も室町時代のものであり、時代的にはこの伝承と一致します。
また、この紅梅寺は、地元では子安地蔵とも呼ばれており、昔から百夜月の子安地蔵はお産を軽くすると評判で、近隣の九重や竹筒からも臨月の妊婦がお参りに訪れたと言います。このことからも、かつて難産の末この地で亡くなった母子にまつわる伝承との関連性が見てとれます。
この伝承を見ると、先のものよりより史実性が高いようにも思われる。しかしながら、これを裏付けるような資料があるわけでもないため、やはり伝承の域を出ないと言えるだろう。伝承に登場する紅梅寺は、現在でも百夜月に跡地が存在しており、裏山には室町時代の宝篋印塔なども残されている。
そして、もう1つこれらとは全く異なる内容の伝承も存在しており、それが以下である。
伝承その③
昔、この地に大変貧しい親子が住んでいた。女房に先立たれた父親は気持ちもすっかり荒んでしまい、夜になると他人の畑から作物を盗むのがこの親子の仕事となっていた。そしていつしか100日目の夜となった。父親はいつものように子供に見張りを指示し、畑へ向かっていく。子供は山の上から大きく顔を出した月を見て「お父、お月様が見ている!」と叫んだ。月はすべてを見透かしていたのである。父親は我が子のその一言を聞いて自分の行いを悔やんだ。そして子供を抱きかかえ川に向かって走り出した。そして親子もろとも川に飛び込みそのまま命を絶ってしまった。この出来事は100日目の夜に起きたことでこれが「百夜月」の由来となった。
他2つの伝承とは異なり全く救いようのない後味の悪い話である。このように、百夜月という地名の由来には何の関連性も見いだせないものが複数存在しているのである。なぜ1つの地名に対してここまで異なる説が存在するのか、今となっては想像するしかない。
尼僧の正体について
伝承には美しい尼僧が登場するが、この尼僧は一体何者なのだろうか。「日本歴史地名体系24」には、慶長(1596-1615)の頃、高辻大納言の息女が紅梅寺に来て尼僧となったとある。因みに出展元は「南牟婁郡誌」である。この話を信じるのであれば、百夜月という地名が生まれたのも慶長年間のことであり、現地に少なくとも室町時代から存在していたであろう宝篋印塔が存在することに違和感は残る。無理やり妥当性を見出すのであれば、伝承②の時代を経たのち伝承①に続くと考えれば、時系列的には辻褄が合うだろう。
伝承の後の百夜月
上記のように数々の伝承はあれど、実際に百夜月がどのような歴史を辿ったのかは、殆ど分かっていない。どちらにせよ戦後の時代に至るまでの間に百夜月の住民は0となっていた。百夜月にはかつての住民のものであったと思われる古い墓石や、住居跡の石垣、神社跡などが至るとこで見られる。墓石の数を見れば、かつてこの場所がそれなりに栄えていたことが伺える。
そんな百夜月に再び人が入植したのは戦後まもなく1940年代のことである。数名の住人が土地を求め、荒れ地となっていた百夜月を開拓し、生活を開始した。その後、しばらくは数戸の人家が存在したようだが、2006年に最後の住人が離村したことでこの地は再び無人の地と化している。
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