2021/12/04

越波集落の歴史 – 集落の成り立ちから人々の暮らし、風習などを解説

今回は岐阜県本巣市の根尾地域と呼ばれる場所に存在する、越波集落の歴史について解説していく。根尾地域は、かつて根尾村であった場所に相当し、2004年に合併により現在の本巣市となった。この越波集落は根尾地域の中でも辺境に位置し、福井県との県境にほど近い場所であることから、古来より越前国の文化・経済的影響を色濃く受けて発展した歴史がある。

2021年現在、この集落に定住者はおらず、区分上は廃村集落となる。しかしながら、春から夏にかけての時期には、元住人や外部からの観光客などが頻繁に訪れるため、集落は未だに良く管理されており、昔ながらの美しい風景を現代にも残している。

また、取材班の現地レポートは別の記事で紹介している。現地レポートでは元住人の貴重な話も収録されているのでぜひ参照してみてほしい。

越波集落の成り立ちについて

越波は集落内にある願養寺と共に発展した集落であり、その歴史については寺に残る古文書などから知ることができる。記録によると元々この地は「頭矢村」と呼ばれていたが、674年に願養寺が創建された際に手漉紙の製法を伝えたことから「紙矢村」と称するようになった。その後1233年に雪害に遭い、住人は紙屋村を捨てその後も紆余曲折ありながら現在の場所に移り住んだと伝わっている。

「越波」の由来について

「願養寺略記」によると、1287年夏に大地震が起きた際に、洪水が発生し人家が悉く水没の危機に晒され、住人は総出で山の上まで避難した。その際に白髪の老翁が現れ経典を水の中に投ぜよと言ったので、その通りにすると忽ち水流は勢いを失い、村を避けるようにして越えていったという。これが現在の「越波」の由来であるとされている。どこまでが真実かは甚だ疑問ではあるが、恐らく何らかの災害が起こり、それに起因した由来であることが伺える。

越波集落の暮らしについて

前述のとおり、越波は越前国との国境付近に位置することから古来より経済・文化面において、かの国の影響を多分に受けて発展してきた。徳川時代には大垣藩の配下となり、近隣の山々で段木(つぎ)や手漉紙などを年貢として納めたり、現金に換えたりしながら生活の足しにする暮らしが大正初期の時代まで続いた。

集落の暮らしは基本的に総て山の資源に依存していたが、明治時代に入ると共有山は各個人に分配され、遠いところにあった山はその殆どが売却され人手に渡ってしまったという。その結果、住民が働ける山が徐々に減っていき、生活の糧となる資源も限られていった。

人口について

各記録によると越波集落の人口推移については下記のとおりである。

時期戸数人口
1759年42
1765年26224
1845年28258
1872年37243
1881年41302
1920年46203
1950年38236
1960年39179
1965年33129
1970年1636
1975年1732
1979年1933
越波の人口と戸数の推移

大家族の風習について

1765年の「越波村人別御改帳」によると当時は戸数26戸に対し、人口は224名となっている。また、1845年の記録では戸数28に対し258名と一戸当たり平均で8名前後であり、特に「右兵衛門」なる有力者の家などは実に22名もの大家族であったと記録されている。

これは長男以外の兄弟が独立せずに同じ家で暮らしたり、下男が嫁を貰いその家族までも一緒に暮らしたりなどして数が膨れ上がったものである。この傾向は越波にほど近い大河原集落も同様であり、このような山奥の集落では古来からの大家族の風習が遅くまで残り続けていたものと思われる。

また、越波とは繋がりの深い大河原集落の歴史については、下記の記事を参照されたし。

雪害について

根尾地域は古くから豪雪地帯で知られる。こと越波・大河原・黒津に関しては奥三ヵ村と呼ばれ、特に僻地にあったことから、冬季には他地域との交通が完全に遮断されることも珍しくなく、冬季への備えは死活問題であった。この地域の人々は雪の降らない11月からは仕事を止め大雪に備えるのが常であった。大雪でない年でも12月~3月、実に1年の3分の1にも及ぶ期間は雪に埋もれるため、外での活動が一切できず、家の中での生活が続いた。

冬季は屋根の雪下ろしや道の雪踏み、家内仕事では藁仕事が主であり、草履やわらじ、炭を入れるタテ編み、雨具などを一年間使う分だけ作った。しかし冬季の現金収入は基本的に皆無であり、通常の生業で得た蓄えも冬季4ヶ月の備えにすべて費やされることが常であったため、住民の生活は決して楽なものではなかった。

越波においては1978年の大雪の際に実に2.5mもの雪が積もったことが新聞などでも取り上げられたほどである。このように越波集落にとって雪害は切っても切れない関係であり、住民にとっても常に悩みの種であった。

教育について

1872の学制の制定以前から寺子屋教育が行われており、家庭で許された者は願養寺で読み書きを学んだ。その当時の教科書などが現在でも願養寺に残されている。

1882年には民家を改造した教室が設置され、1人の教師も配置され越波学校が発足。それが4年後の1886年には越波簡易小学校となり、1904年に根尾村が発足するにあたって黒津尋常小学校越波分校となった。1921年に現在の場所に新校舎が建設され、新たな教育が進むとともに、終戦後には中学校の分校まで設置され、生徒数も本校よりも多い70名に上った。教師も3名設置され充実した教育環境が整っていたが、1965年の災害を境に生徒数が徐々に減少し始め、1970年時点では生徒1名、教師 1名 となった。

墓地と埋葬について

墓地は昔から集落の端にあり、火葬で弔われてきた。とはいえ火葬場はなかったため即席の設備に薪を積んで、その上に棺を乗せ火葬を行った。越波集落ではこの即席の火葬場を「せくじょう」と呼んでいたが、これがどういう意味を持つのか、またどういった漢字を当てるのかも分かっていない。

越波集落の生業について

前でも述べた通り集落での暮らしはすべて山に依存しており、これは生業においても同様である。以下では越波の主な生業を解説していく。

農業について

水田が極端に少ないこの地では、昔から焼畑を盛んに行い、稗や粟を採り主食とした。その他にも山に自生する栃の実や栗の実も大切な食糧として欠かせないものであった。

御段木伐りと林業

段木とは薪にする前の状態の木材のことを指し、この地方でしか用いられない珍しい言葉である。その地勢上、米の収穫があまり期待できなかったことから、この段木を年貢として納めたり、現金に換えて生活の足しにした。

また戦時には付近の山々を買い取った深作林業所が願養寺に本部を置き、陸軍航空用の木材が終戦に至るまで大量に刈り出された。また集落の住人の少なくない者がこの林業所での仕事に従事した。この大事業の折に近隣の林道も拡張・舗装され、それまでは荷馬車で生産物の運搬を行っていたこの地に初めて自動車が導入された。

紙漉き

越波では紙漉きも盛んに行われた。集落で生産された紙は年貢として納められたり、現金に変え生活費の足しにされたりと人々の生活を支えるうえで重要な生業であった。12月に入ると、原料となる楮(こうぞ)や椏(みつまた)の刈り取りを開始する。これらの原料は畑の周りや山で大量に栽培していたという。12月から紙漉きを開始するのは、寒中に漉くと上質な紙が漉けると言われていたからである。なので、通常は12月~3月の中旬ごろまで続けられた。

紙は、黒いちりの混じった低質のものを「ちり紙」といい、それよりも少し綺麗なものを「よくろ」といった。混じり物のない上質な紙は「美濃紙」といわれ、現金の代わりとしてこの美濃紙が取引に使用されることもあった。

麻織物

越波では麻を栽培してその繊維を糸にし、麻織物を織った。この織物のことを「サッコリ」といった。当時の越波では着物など上等な麻織物を織るだけの上質な糸を生産する技術がなく、生産された織物は日常の用途で使用されたようである。

麻の種子は5月下旬頃に畑に蒔かれ、8月の盆前には刈り取りを行った。基本的には冬になり、外仕事が行えなくなった時期に麻糸紡みの仕事にとりかかった。3~4月頃までには機織りまで行い反物にした。越波には染色の技術がなかったので、はるばる越前の紺屋で染色を行ったという。

養蚕

根尾地域の村々では昔から養蚕が行われており、17世紀頃には大垣藩に年貢として真綿が納められていた記録が残っている。明治に入るとさらに盛んになり、主に女衆が中心となって養蚕をおこなった。養蚕は数少ない現金収入となる生業であった。

越波集落の信仰について

前述の通り越波集落の歴史は願養寺と共にあり、すなわち信仰と共に繁栄した集落であった。信仰の場であるこれらの寺社は、廃村となった今でも元住人の寄り合いによって大切に管理されている。

願養寺

寺の略史によると、願養寺は天武天皇の勅願寺とあり、当初は海蔵院根尾寺と称した。願養寺の起源は7世紀まで遡ることができ、最初は法相宗として673年の4月28日に創建され、その後、紆余曲折あり浄土真宗に帰依したという。 

1640年3月には村で大火が起こり、一部の宝物を残し全焼したが、その後1688年頃に現在の位置に再建された。集落に学校が設立されるまでは、寺子屋として集落の教育を担い、戦時には航空用材の搬出基地にされ、周辺の道路の整備に寄与するなど長い歴史の中で様々な役割を担ってきた。 
 
越波集落は実に千年を超える月日をこの願養寺とともに歩み共に発展してきたことになる。現在でもこのお寺は人々に愛され、集落のランドマークとしての堂々たる威容を誇っている。 

八幡神社

越波集落の氏神は八幡神社である。神社は願養寺の境内とひと続きになっており、向かって寺の右側に位置している。1759年の「根尾村々の神社お尋帳」によると、当時は八幡大菩薩社と称した。本殿は1967年に再建され、1977年には拝殿を修復、続く1978年には鳥居を建立し現在に至る。

拝殿の壁には古い鰐口が掛けられており、これには”八幡大菩薩 天和二年(1682年)十二月吉日 松葉五兵衛吉嗣”と刻まれている。今から300年も昔に松葉五兵衛という人物が寄進したものと思われる。神社の境内には幹廻り十数メートルの杉のご神木があり、この神社の古い歴史を物語っている。この杉の大木は村指定の天然記念物にも指定されている。

戦時の越波集落

ここでは越波集落の戦時の記録を紹介していく。越波のような辺境に位置する山間集落でも戦争とは無縁ではなく、幾名かの戦没者を出している。以下は越波集落出身の戦没者の記録である。

氏名階級戦没理由戦没年月日戦没場所
松葉 佐太郎陸軍一等兵戦病死1905年4月22日金沢予備病院
川辺 辰吉陸軍一等兵戦傷死1905年9月28日清国新京省
日露戦争時の戦没者についての記録
氏名階級戦没年月日戦没場所
川辺 吉友陸軍上等兵1944年9月27日ニューギニア島
上杉 只一陸軍伍長1944年12月15日フィリピン諸島
林 清一軍属1945年6月22日呉海軍工廠
太平洋戦争時の戦没者についての記録

まとめ

今回は越波集落の歴史を解説した。千年を超える歴史を有すその歴史に畏敬の念を抱くと同時に、これほどまでに長い間歴史を紡いできた場所が、今の我々の時代に途絶えようとしている現実に、当事者ではないにも拘らず悲愁の情を抱かずにはいられない。そして、まだこの国には越波と同じ状況にある場所が無数に存在しているのだ。

時の流れはまさに無常であるが、我々historicaは今後もそのような場所に実際に訪れ、この目に焼き付けそれを記録していくのみである。

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